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【リチャード三世からホールデンまで】そこにシビれる! あこがれるゥ! 文学史上のアンチ・ヒーローたちの系譜

フィクションの世界では、まっすぐに正義を追求するヒーローよりも、屈折した内面を抱えたアンチ・ヒーローの方に人気が集まることもしばしばです。アンチ・ヒーローたちの系譜を遡ると、世界文学史上の大傑作にその原型を見いだすことができます。その魅力、その正体を、文学の歴史とともに紐解いてみましょう。

「アンチ・ヒーロー」の系譜

はじめに

 アンチ。いい響きです。
「アンチ」ってつけただけでなんでもカッコよくなります。
テーゼよりアンチ・テーゼ、ミステリよりアンチ・ミステリ、そしてヒーローよりアンチ・ヒーローの方がずっとカッコよく聞こえませんか?
実際フィクションの世界では、まっすぐに正義を追求するヒーローよりも、屈折した内面を抱えたアンチ・ヒーローの方に人気が集まることもしばしば。ルーク・スカイウォーカーよりハン・ソロ、スーパーマンよりバットマン、ケンシロウよりラオウに惹かれてきたという方も少なくないでしょう。こうしたキャラクターたちの系譜を遡ると、世界文学史上の大傑作にその原型を見いだすことができます。「おれたちにできないことを平然とやってのけるッ」アンチ・ヒーローの魅力、その正体を文学の歴史とともに紐解いてみましょう。

そもそも「アンチ・ヒーロー」って?

 世界で最も権威ある英英辞典Oxford English Dictionaryによれば、

「アンチ・ヒーロー(anti-hero)」とは「ヒーロー」に対立する、あるいはヒーローを反転させた人物。とりわけ、伝統的な英雄像とまったく異なりながら、詩、戯曲、小説などで主役を務めるキャラクターのこと。

西洋近代文学は、主にキリスト教(とりわけカトリック)的なイデオロギーに支配された中世以前の伝統的価値観に疑義を呈し、あくまで自由な「人間」としての新たな生き方を模索することで発展してきました。こうして、既存の秩序の中に自らの生を見出せない時代のはぐれ者たちが、アンチ・ヒーロー的な主人公として描かれていくわけです。各時代の「正義」に縛られたヒーローたちに対し、それを逸脱していくアンチ・ヒーローの形は千差万別。しかし、既存のイデオロギーに対する違和感と反逆を常に宿しているという意味で、アンチ・ヒーローたちはまさに近代文学のスピリットそのものを体現していると言えるかもしれません。

「悪」という自意識:ルネサンス期のアンチ・ヒーロー

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 14世紀イタリアから始まったとされる文化復興運動ルネサンス。200年以上も続く文学の大きなうねりの中で、イギリスに世界最大のアンチ・ヒーロー作家が生まれます。誰もが知る世界文学の巨星、ウィリアム・シェイクスピアです。『マクベス』のマクベス、『ベニスの商人』のシャイロック、『オセロー』のイアーゴなど、シェイクスピアが生み出した悪人たちは、人間の負の側面を体現しながらも、強い共感を呼ぶ不思議な魅力で読者を惹きつけてきました。
 そんな彼が生み出した最大のアンチ・ヒーローといえば、暴虐の王・リチャード三世。イギリス王族として生まれながら、生まれつきの不具のため皆に疎まれて育ったグロスター公リチャードは、己を醜く産んだ世界のすべてを呪い、悪の限りを尽くして王位を簒奪しようと奮闘します。

 ああ、俺という男は。(中略)あのおためごかしの自然にだまされて、美しい五体の均整などあったものか、寸たらずに切詰められ、ぶざまな半出来のまま、この世に投げやりに放りだされたというわけだ。歪んでいる、びっこだ、そばを通れば、犬も吠える。そうさ、そういう俺に、戦も終り、笛や太鼓に踊る懦弱な御時世が、一体どんな楽しみを見つけてくれるというのだ。日なたで自分の影法師にそっと眺め入り、そのぶざまな形を肴に、即興の小唄でも口ずさむしか手はあるまい、口先ばかりの、この虚飾の世界、今さら色男めかして楽しむことも出来はせぬ、そうと決れば、道は一つ、思いきり悪党になって見せるぞ、ありとあらゆるこの世の慰みごとを呪ってやる。
『リチャード三世』(新潮文庫、福田恆存訳)

文学史上に燦然と輝くこの名台詞、有り体に言ってしまえば「醜男の恨み言」に過ぎません。矮小なコンプレックスを普遍化し、稀代の大悪人へと昇華させる筆致こそシェイクスピアの面目躍如。ところで、評論家・劇作家にしてシェイクスピア戯曲の翻訳者でもある福田恆存は、リチャードを「自分の悪を意識していると同時に、それをあえて他に隠そうとはしていない」「意識家」と評しています。神の道に照らそうと、浮世の法に照らそうと、己の恨みも憎しみも決して正当化されることはない。それを知ってなお、とめどなく湧き上がる怒りと欲望をただ独り肯定し突き進むリチャードの姿は、硬直化するカトリシズムの教えから離れ、共同体から疎外される孤独に耐えつつも、自ら「人間とは何か」を自由に思考し、その複雑怪奇なあり方をそのまま受容するルネサンス的人文主義の結晶であると言えるかもしれません。彼を凡百の悪役から明確に区別し、我々の共感さえ誘うのは、自らを「悪」と称して憚らない「人間」としての自意識に他ならないのです。
 この系譜に連なるアンチ・ヒーローとして、神が与える無償の愛に縛られ続けることを潔しとせず、やはり自ら「悪」を認じて反逆を企てる『失楽園』のサタンや、この世界の不可解さの象徴たる白鯨モビィ・ディックへの憤怒に燃え、自身の狂気を知りながら復讐の冒険へと挑む『白鯨』の主人公エイハブ船長を挙げることができます。また現代日本のサブカルチャーに目を転じると、己の欲望と生への執着のために、自ら「人間をやめる」ことを宣言して吸血鬼となり、世界を手中に収めんとする『ジョジョの奇妙な冒険』のDIOなどは、文字どおり人の道を外れながらも、己の自我のみを頼りにして自身の存在を定義しようとする強烈な自意識において、逆説的に最も「人間」らしいアンチ・ヒーローであると言えるかもしれません。

社会の批判者、ロマンティック・アンチ・ヒーロー

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 ヨーロッパで啓蒙思想が主流となった17世紀後半から18世紀は、アンチ・ヒーローたちにとって冬の時代でした。16世紀スペインに端を発する文学形式ピカレスク・ロマン(悪漢小説)がイギリスで再流行し、アンチ・ヒーロー的な主人公が活躍する作品は量産されたものの、当時の小説は「理性」を重視し読者を啓蒙するという意図・役割が強かったため、その主人公たちも比較的穏健で理性的、悪くいえば小粒なキャラクターに止まるものが多かったのです。(もちろん、マルキ・ド・サドなどの強烈な例外は存在しましたが。)
 時は流れて19世紀、理性偏重の風潮に反発し、抑圧された感情の解放を声高に主張するロマン主義、欲望に支配される人間と社会のリアルを描こうとする写実主義・自然主義の高まりの中で、シェイクスピアに負けず劣らずの強烈なアンチ・ヒーロー作家たちが再び登場します。中でも注目すべき作家は、フランス文学の巨匠オノレ・ド・バルザックとロシアの文豪フョードル・ドストエフスキーでしょう。
 自身の作品群を「人間喜劇」と名付け、19世紀フランス社会、そこに暮らす人々の光と闇を描いたバルザック。自ら生み出した莫大な数の登場人物たちのうち彼が最も愛したとされるのが、「偉大なる悪と堕落の権化」、「死神だまし」の異名をもつ天下無双の大悪党ヴォートランことジャック・コランです。代表作『ゴリオ爺さん』で初めて登場したヴォートランは、本名を隠して市井の片隅に潜みつつ、フランス闇社会の住人たちを影から操っています。目的達成のためには殺人も辞さない悪人でありながら、ヴォートランの巧みな弁舌と堂々たる人生哲学は、我々読者を強く魅了します。

人間は不完全だ。時と場合によって多かれ少なかれ偽善的なものだが、それを馬鹿な連中は真面目だとか不真面目だとか言うんだ。民衆の肩をもって、金持ちを責めるつもりはない。人間っていうものは、上でも、下でも、真ん中でも、みんな同じだからね。ところが、この高等家畜の百万頭につき十頭ほど勇猛果敢なのがいて、あらゆるものの上に立ち、法律さえ超越する。おれもその一人なんだ。きみが優れた人間なら、頭をあげて、まっすぐ突き進んだらいい。だが妬みや中傷や凡庸、及びあらゆる人間と闘わねばならない。
(『ゴリオ爺さん』、集英社文庫、博多かおる訳)

権謀術数の切れ者でありつつ、ひとたび激情に火がつけば、並ぶものなき膂力で邪魔者を蹴散らすヴォートランは、「個」としての圧倒的なパワーをもって、腐敗したフランス社会をサヴァイヴしていきます。フランス文学者の野崎歓はヴォートランを「死神をもだます法外なエネルギーの具現」と呼び、彼の物語を「傲然と規制秩序に反逆し続けるものの闘争」と位置付けていますが、窮屈な浮世の理を蹂躙する痛快な悪魔的天才が、彼の魅力の核にあることは間違いありません。
 バルザックの愛読者であったドストエフスキーもまた、既存の社会の息苦しさに反発するアンチ・ヒーローたちを多く生み出しました。『罪と罰』のラスコーリニコフ、『悪霊』のスタヴローギン、『地下室の手記』の語り手など、彼の後期作品には必ずと言っていいほど魅力的な反逆者が登場します。遺作『カラマーゾフの兄弟』に登場する偽悪的知識人イワン・カラマーゾフが語る、子どもたちが理不尽に虐待される社会への怒り、それを創り出した神への弾劾は、読むものの胸を熱くさせます。
 バルザックとドストエフスキーに共通するのは、人間の自由を縛りつけ抑圧的な生を強制する理不尽な既存社会への不満と、善悪の彼岸を志向する人間の無限の可能性へのロマンティックな期待です。この二つが交錯する地点にこそ、悪魔的なパワーを持ったアンチ・ヒーローが誕生するのです。たとえばアニメ『機動戦士ガンダム』において、人間の無限の可能性を「ニュータイプ」という理想に託し地球の植民地主義的に傲然と反逆するジオン公国のエース、シャア・アズナブルなどをこの系譜に位置付けることもできるでしょう。

アンチ・ヒーローの弱体化と偏在

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 20世紀で最も影響力のあったアンチ・ヒーローといえば、サリンジャーの小説『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の主人公ホールデン・コールフィールドの名が真っ先に上がるでしょう。欺瞞に満ちた「大人たち」の世界へのホールデンの苛立ちは第二次世界大戦後の少年たちに深く共有され、同書は未だに世界的ベストセラーであり続けています。この世のほとんどありとあらゆるものに毒づいてみせながら、危機に陥った子どもたちの救い手(キャッチャー)でありたいというホールデンの思想(?)は、彼がリチャードやイワンの後継者であることを示しているようにも思えます。
 しかし、ほとんど狂気的なパワーで読者を圧倒してきた19世紀以前のアンチ・ヒーローに対し、17歳のホールデン君の生命力はどこか弱々しく感じられます。自分が生きるアメリカ社会の何もかもを嫌いながら、彼は自らのやるべきことを何一つ見つけることができず、死んだ弟にばかり思いを馳せながら、ついには精神病院らしき場所に収監されてしまいます。50年代以降のアメリカでは、カウンター・カルチャーと呼ばれる反体制的な若者文化が隆盛を極めますが、そこに描かれる若きアンチ・ヒーローたちは社会への反発を表しつつも、自らの生の方向性を見失い、いつも寄る辺なく戸惑っています。
 同時期のイギリスでも、「怒れる若者たち(Angry young men)」と呼ばれる労働者階級出身の作家たちの活躍を皮切りに、反抗的な若者たちを描く文学作品が流行します。スタンリー・キューブリックによって映画化もされたアンソニー・バージェスの近未来SF小説『時計じかけのオレンジ』の主人公アレックスも、既存の倫理や秩序に反逆する若きアンチ・ヒーローの一人です。とりわけ映画版において、荘厳なクラシックの名曲たちを背景に繰り広げられるアレックスの「ウルトラ・バイオレンス」は、ショッキングかつグロテスクでありながらどこか祝祭的で、観るものに不思議なカタルシスを呼び覚まします。
 傍若無人を絵に描いたようなアレックスですが、物語中盤で警察に逮捕されてしまい、「ルドヴィゴ療法」なる実験によって暴力に拒絶反応を起こす身体に変えられてしまいます。その後の紆余曲折を経て、彼が再び暴力への嗜好を取り戻すところで映画版は終わりますが、実は原作には後日談があり、アレックスはその後暴力に満ちた生活に飽き、中産階級のマイホーム・パパになることが暗示されるのです。作者バージェスはこれをアレックスの「成長」であると捉えていたようですが、その爆発力で社会を強烈に批判してきたアンチ・ヒーローの変貌が、一抹の寂しさを感じさせることは否定できません。
 「大人」になることができず社会から隔離されてしまったホールデンと、「大人」になってしまうことで社会に組み込まれてしまったアレックス。二人がたどる結末は対照的ですが、そこに共通して漂うのは社会に対する苦い敗北、あるいは反抗し続けることへの諦めの感覚です。第二次大戦より登場した核というもはや人の力では抗いがたい圧倒的な暴力や、すべてを包括するグローバル資本主義という巨大なシステムは、外部から社会を批判する者としてのアンチ・ヒーローを弱体化させてしまったのかもしれません。翻って言えば、誰もがシステムに取り込まれざるを得ない以上、もはや純粋な正義や悪は存在せず、すべてのヒーローと悪役は中間的なアンチ・ヒーローとしての苦悩を背負うことになると言えます。この意味で、『機動戦士ガンダム』の主人公アムロ・レイや、『新世紀エヴァンゲリオン』の碇シンジなどの「悩める少年主人公」たちは、ホールデンやアレックスの後継者なのかも。

おわりに:アンチ・ヒロインの時代へ

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 アンチ・ヒーローの系譜をたどることで気づかされるのは、女性キャラクター、すなわちアンチ・ヒロインの圧倒的な少なさです。『バッド・フェミニスト』の著者ロクサーヌ・ゲイは、文学における女性キャラクターについて大変鋭い意見を述べています。

感じの悪い男がアンチヒーローとして前面に出されたり、彼がいかにして伝統的な意味での好感の持てる人間つまり規範から逸脱するのかについて特別に説明されたりする例はたくさんある。(中略)女性が好感を持てない人間だった場合、プロでも素人評論家でも、そこが批評的対話における論点になる。(『バッド・フェミニスト』)

もちろんこれまでも、フィクションにおいて伝統的な女性像を逸脱するキャラクターは描かれてきましたし、彼女たちを再評価することが文学研究においてフェミニズムの果たした大きな役割です。しかしそうしたキャラクターが一般の読者に好感を持って受け入れられることは現代に至るまで稀であるという現状を、ゲイは強く批判しています。
 家父長制社会に都合のいい女性像に反発しながら、「男を誘惑する悪女(ファム・ファタール)」というステレオタイプに当てはまらない女性主人公を描いた作品として、奔放な性関係のために共同体の皆に疎まれながら、心のままに自身の生を謳歌するヒロインを描くトニ・モリソンの『スーラ』、徹底した謀略で自身を裏切った夫に復讐する妻を描いたジリアン・フリンの『ゴーン・ガール』などを挙げることができます。ゲイが指摘するように、彼女たちは未だ文学界を代表するキャラクターとしての人気と知名度を獲得できてはいません。しかし、男のアンチ・ヒーローたちが力を失っていく今、窮屈な世界に風穴をあける反逆的なパワーで我々を圧倒してくれるのは、こうしたアンチ・ヒロインなのかもしれません。

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