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【井伏鱒二、太宰治、小林多喜二…】東京、中央線沿線に住んだ作家たち。

荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺といった個性豊かな街の数々がある中央線沿線は、実は日本近代文学が発展した地域でもありました。戦後杉並区長になったアナーキストから、高円寺を舞台にした作家たちの恋愛模様まで……中央線沿線と文学の深い関係を紹介します。

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荻窪、阿佐ヶ谷、高円寺といった個性豊かな街の数々がある中央線沿線。その昔、関東大震災後にこの地域へ家を求めた人の中には、多くの作家や文学者の姿もありました。

「山椒魚」などの作品で知られる井伏鱒二もまた、中央線沿線に住んでいた作家の1人でした。井伏鱒二は「文学青年の間では都心から離れて住むことが流行しており、中央線沿線方面には三流作家が移り住んだ」と述べています。

しかし、井伏のいう「三流作家」の顔ぶれを覗いてみると、太宰治中原中也という今なお文学青年たちに愛されている作家をはじめ、小林多喜二三好達治という文学史にその名を残す面々が! そこで今回は、日本文学が発展した地域、中央線沿線に住んだ作家たちと、彼らがそこに集った理由についてご紹介します。

 

与謝野晶子所縁の地、「荻窪」

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荻窪には「みだれ髪」で知られる歌人、与謝野晶子にまつわる2つのものが残されています。

1つは荻窪駅から徒歩10分ほどのところにある「与謝野公園」。こちらの公園はかつて、与謝野晶子・与謝野鉄幹夫妻の住居があった場所に作られています。元は「南荻窪公園」と呼ばれていましたが、2012年に整備され「与謝野公園」と名称を改めました。現在では短歌が記された14基もの歌碑や、住居の間取り図が載ったレリーフが設置されており、文学公園として多くの人に愛されています。

もう1つは与謝野公園からほど近くにある、杉並区立桃井第二小学校の校歌です。当初は夫の鉄幹に依頼された校歌の作詞ですが、鉄幹が亡くなったことにより、晶子が引き継ぐこととなりました。

『まことに愛らしい、花よりも鳥よりも愛らしい、そうして未来にどんなえらい方におなりになるかも知れない。子どもというものはこれほど尊いものか、と考えるようになりました』

『私はこの桃井第二小学校の校歌を作らせていただきましたことにより、世間のすべての小さい方に愛情を持つようになったことを感謝いたしております』

そう校歌発表会で話した晶子の言葉からも、作詞の依頼について愛情を持って取り組んだことが窺えます。

この校歌の2番に「自然の匂ひ ゆたかなり」とあるように、当時の荻窪は自然あふれる土地でした。しかし、与謝野晶子・鉄幹夫婦の他、公爵で内閣総理大臣であった近衛文麿が別邸を構えたことから、次第に閑静な住宅街として評価が高まったといわれています。それは東京近郊地の別荘地として「西の鎌倉、東の荻窪」と並び称されるほどでした。そこから井伏鱒二、太宰治といった作家をはじめ、音楽家、評論家など文化人が移住するようになったのです。

 

作家たちが集った「阿佐ヶ谷」と阿佐ヶ谷会

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中央線沿線のなかでも、阿佐ヶ谷は特に作家たちに大きく関わる場所です。井伏鱒二が中心となり結成された文士たちの会合、「阿佐ヶ谷会」をきっかけに、多くの作家たちが阿佐ヶ谷に集まりました。彼らの溜まり場は、阿佐ヶ谷駅北口のロータリーにあった中華料理店の「ピノチオ」でした。佐藤春夫が翻訳した童話が店名の由来となったこの店は、メニューの値段が安かったことから作家たちが日に日にたむろしていったと言われています。

それだけでなく、井伏鱒二の「荻窪風土記」には

ピノチオの料理は、シナ蕎麦十銭、チャーハン五十銭、…である。シナ蕎麦は出前で届けても、一人前十銭には変わりがない。口銭は二銭しか入らない。…「この店、もう止すことにしたいんです」と言ひ難そうにサトウさんが言った。私はピノチオが店を止すと、阿佐ヶ谷で借金のきくところが無くなってしまふ。止されては困るので「君は常連客のことも少し考えろ」と言った。「さう仰るだろうと思っていました。」サトウさんはそう言っていたが、…

『井伏鱒二全集』 第27巻 88〜89頁

とあり、ツケや借金がきくところも当時貧しかった作家たちには都合が良かったのでしょう。

ここに集まる阿佐ヶ谷会のメンバーには安成二郎、尾崎一雄、小田嶽夫、田畑修一郎、中村地平、石濱三男。その他にも木山捷平、太宰治、青柳瑞穂、三好達治といった顔ぶれが揃っており、彼ら交流の場であったのはもちろん、精神的にも経済的にも不安を抱える無名の文学青年たちにとっては大きな支えであったとも考えられます。こうした集まりは、同じ志を持つ若者と切磋琢磨し、その孤独を癒す場としてなくてはならないものでした。

 

アナーキストが戦後区長に!? 「高円寺」と左派文壇の関係

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「杉並区」といえば、主婦の読書会から広まった原水爆禁止運動の発祥の地としても知られていますが、現在もなお草の根的な市民運動の中心地として知られているのが「高円寺」。震災後には高円寺のリサイクルショップである「素人の乱」が中心となって数千人規模の反原発デモが巻き起こったことでも注目されました。

さて、現在は町域変更による併合で小学校名や神社に名残があるばかりですが、かつて阿佐ヶ谷と高円寺の間は「馬橋」という地名でした。ここは「蟹工船」以来、プロレタリア文学の名手として活躍した小林多喜二が住んでいた場所です。左翼弾圧の拷問で亡くなった小林多喜二の死体はこの馬橋の家に戻り、葬儀が営まれました。このできごとからプロレタリア文学はやがて衰退に至ります。

しかし、中央線沿線における左派的思想は、プロレタリア文学運動の衰退によって途切れたわけではありませんでした。1947年には、アナーキズム系の機関紙創刊に関わった新居格が杉並区の初代公選区長を務めています。

「アナーキズム」といえば「無政府主義」を意味する極端な政治思想。戦前の著作、『アナキズム芸術論』で新居格が掲げていたのも無党派的文化運動としてのアナーキズムでした。そんな思想の持ち主が区長に!?という驚きもまた、杉並区独自の思想風景を映し出しているでしょう。

(次ページに続く)

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