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【SM・バラバラ殺人】傑作推理小説のモデルになった昭和の犯罪事件簿

あの傑作推理小説は実際の事件をモデルにしていた!?ドキドキハラハラが止まらない、昭和の犯罪事件とミステリー作品との関係を探ります。

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久生十蘭『魔都』と2・26事件

しかしながら、1930年代も後半にさしかかると、次第に戦争の影が色濃く日本社会全体を覆っていきます。1936年に起った2・26事件は、まさにこのような世相を象徴する事件でした。

陸軍の青年将校らがクーデターを企て、首相官邸や警視庁などを襲撃し、ときの総理大臣、内大臣、大蔵大臣などを死傷させたこの事件は、皇居を中心として官公庁が集中する、まさに国家機能の中枢であった、永田町周辺を舞台とした都市型犯罪でもありました。

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久生十蘭の『魔都』(1937‐1938)という探偵小説は、この2・26事件を背景にしているとされています。物語は、1934年の大晦日、お忍びで日本に来ていた安南国(現在のベトナム)の皇帝が失踪し、その愛人であった元宝塚の女優が赤坂山王台のアパートから転落死するという事件の謎を追う、新聞記者・古市加十と、警視庁刑事・真名子明の二人の探偵の活躍を中心に展開します。

そこに、安南の親仏・親日派の対立を背景とした日仏間の外交問題へと発展することを案じる日本政府の高官から、安南のボーキサイト利権をめぐる日本の二大コンツェルンとその下につくヤクザ集団、さらには皇帝が日本に持ち出したと噂される国宝のダイヤを狙う悪人たちまでもが絡み、事件は一層複雑化していきます。

そして、小説のクライマックス、皇居を覆うように丸の内から永田町、赤坂一帯を封鎖して行われた、皇帝を誘拐したとされるヤクザ集団と警察との「市街戦」の様子は、まさに2・26事件の「鎮圧」の風景そのものです。その「市街戦」の様子は次のように述べられます。

安南の皇帝が、武装した兇漢に捕禁されたという事実を一般に知らしめることははなはだ遺憾であるばかりでなく、この丸の内の中心に銃器を携えた兇徒の一団が蟠居して、警視庁に対抗の姿勢をとったなどということは、社会事相としてはあまりに重大すぎて、到底発表できない性質のものだったから、この戦闘は隠密のうちに始め、隠密のうちに終らせる必要があった。それ故にこそ、警視庁は全機能をあげて事態遮閉に努め、この凄絶な戦闘は、東京市民が誰一人知らぬうちに完了されてしまったのである。

2・26事件が起こった当時、東京には戒厳令が出され、新聞社は事件を報道することが禁じられました。そのため、様々な噂が飛び交い、なかには皇居が占拠され、天皇が幽閉されたのではないか、といったデマまで出回ったそうです。

探偵の敗北

日中戦時下に書かれたこの『魔都』という小説は、国家権力による検閲をくぐり抜けたことが奇跡とも思えるほど、当時の権力機構の内情について鋭く切り込んでいます。この小説は、事件の裏面に渦巻く陰謀を記事化しようとしていた加十が殺され、真犯人を取り逃がした真名古が失意のうちに辞職するという、二人の探偵の敗北によって結末を迎えます。

この結末には、国家権力に批判的であるべきはずのジャーナリズムと国民の治安を維持するための警察とが無力化し、第二次大戦へとなだれ込んでいく軍部の独裁体制が敷かれる契機となった2・26事件の本質が見事に捉えられています。

そこにはまた、真実を覗き見るという欲望が社会の最大の「秘密」である国家的な陰謀に触れてしまうとき、「探偵」という存在は無力にも抹消されてしまう運命にあったことが描かれてもいたといえます。

 

むすび

これまで駆け足でご紹介してきたように、大正末期から昭和戦前期にかけて成立した都市空間のなかに生きる人々の、隠された秘密を覗き見たいという欲望と結び付いた日本の探偵小説には、エロ・グロな猟奇犯罪から、政治的なテロリズムまで幅広い題材が描かれていました。

当時の探偵小説は、誰にでも手に取れるエンタメ作品として文章も平易に書かれていますので、ぜひこれを機会に手に取って、当時の人々の「秘密」を覗いてみてください。

【執筆者プロフィール】

井川 理 (いがわ おさむ)

東京大学大学院 総合文化研究科

言語情報科学専攻 博士課程

 

※作品の引用は『江戸川乱歩電子全集 第1回配信 明智小五郎登場編』(小学館2015年)、『久生十蘭全集1』(三一書房1969年)より行いました。

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