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【宮沢賢治に隠れた影響?】あなたが知らない「エスペラント」の世界

世界中の人々にとって「第2言語としての共通語」となるべく作られた人工言語、エスペラント。利用者の少ないマイナー言語というイメージを持たれがちなエスペラントですが、実は日本文学とも深いつながりがあり、現在も世界各地で独自の文化を作りだしているのです!この記事では、そんなエスペラントの世界についてご紹介致します。

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はじめに

P+D MAGAZINEの読者の中には、「エスペラント」という、世界共通語となることを目指して作られた言語の存在を知っている方も多いと思います。しかし、実際のところエスペラントがどんなものであり、どこで誰が使うものなのかは、あまりよく知られていないのが実状ではないでしょうか。

筆者はエスペラントを学び始めて1年ほどになります。学び始めたきっかけは、筆者の関心分野である植民地時代の朝鮮の言語文化について調べていくうち、20世紀前半の東アジアでエスペラントが想像以上に広まっていたことを知ったからでした。そして実際にエスペラントを学んでみて、その世界の時間的・空間的広がりに驚くことになったのです。

これからその世界の一端をお見せしようと思います。

 

エスペラントとはどんな言語か

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エスペラントは、1887年にポーランドの眼科医ルドヴィコ・ザメンホフ(1859〜1917)が創り出した言語です。現在、世界中のエスペランティストの間でUnua Libro(最初の本)と呼ばれている解説書がワルシャワで出版されたことで、エスペラントは誕生しました。

Unua Libro
Unua Libro ロシア語版の表紙

エスペラントはいかなる民族や国家にも属することのない言語です。日本語、英語、中国語などのように、その言語をネイティヴで使うとされる民族や、「国語」として定める国家を、エスペラントは持っていません(エスペラントのネイティヴ・スピーカーは世界各地に存在します)。言葉の通じない人とのコミュニケーション手段として「エスペラント」という言語がまず存在し、その言語を支持し使用する人々(=エスペランティスト)がいるというのが、エスペラントの基本的な世界観だと言えます。

エスペラントという言語を広める活動は世界各地で行われており、一般にエスペラント運動と呼ばれます。このエスペラント運動に関するよくある誤解の1つとして、「エスペラントは世界中の言語を統一して多様性を排除しようとするものだ」というものがあります。しかし、実際にエスペラントが目指す世界は、それとは正反対のものです。

1905年、フランスのブーローニュ=シュル=メールという街で、第1回世界エスペラント大会が開かれました。そこで採択された「ブーローニュ宣言」の第1条には、次のように書かれています(エスペラント文の日本語訳は拙訳。以下同じ)。

La Esperantismo estas penado disvastigi en la tuta mondo la uzadon de lingvo neŭtrale homa, kiu ne entrudante sin en la internan vivon de la popoloj kaj neniom celante elpuŝi la ekzistantajn lingvojn naciajn, donus al la homoj de malsamaj nacioj la eblon kompreniĝadi inter si […]
(エスペラント主義とは、人々の内的な生活に介入せず、現存する民族語の排斥を決して目指すことなしに、異なる民族に属する人々の相互理解を可能にする[……]中立な人間の言語の使用を、世界中に広めるための試みである。)

つまり、エスペラント運動が目指すのは、世界中の人が使う言葉を統一することではなく、多様な言葉を使う人々の間で通用する、第2言語としての共通語を広めることであり、個々人が使う言語を抑圧したり禁止したりするものではありません。

1996年、第81回世界エスペラント大会(チェコ・プラハ)で採択された「プラハ宣言」では、例外なく2つ以上の言語を使う人々の集まりであることがエスペラントの共同体の特徴であると述べています。エスペラントという民族間の国際補助語(internacia helplingvo)が存在することにより、特定の民族語を強制されることなく、どんな少数言語であってもその言語を使い続ける権利が保証される、というのがエスペラント運動の目指す世界だと言えます。

学問やビジネスのために世界中の人々が英語を学び、英語ネイティヴの人々はそうした苦労をしなくて良いのがこの世界の現状ですが、こうした言語的な不公平をなくしていこう、というのがエスペラント運動の最大の原動力なのです。

エスペラントの概要については、日本エスペラント協会の「エスペラントとは」というページでも読むことができます。

 

東アジアでブームを引き起こしたエスペラント

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日本でもっとも早くエスペラントに触れた人物の一人が、「浮雲」で有名な二葉亭四迷(1864〜1909)です。ロシアのウラジオストクで初めてエスペラントを習ったという四迷、その時は大して関心がなかったようなのですが……。

北京へ行つて暫らく逗留してゐると、或日巴里パリから手紙が来た、巴里に知人はないがと怪しみながら封を切つて見ると、エスペラント語で日本に於けるエスペラント流布の状況が聞きたいといふ意味の事が書いてある。署名は仏人の名だが一向知らない人だ。さてはエスペラント協会員だなと心附いたから、日本では一向まだ駄目だといふ返事を出して置いたが、〔日露〕戦争前帰朝すると間もなく又墨西哥メキシコの未知の人から矢張エスペラント語で絵葉書の交換を申込んで来た、成程教科書は西班牙スペイン語にも飜訳されてあるから墨西哥にエスペランチストのあるに不思議はないが、それでも其葉書を手にした時には、実に意外の感に打たれましたよ、といふものでエスペラントは今では思ひ掛けない処にまで弘まつてゐるから、エスペラントは確かに世界通用語になりつゝあるものと謂いつてよろしい。
――二葉亭四迷「エスペラントの話」(1906)より

エスペラントが「思ひ掛けない処にまで弘まつてゐる」という「意外の感」は、四迷をして「エスペラントは確かに世界通用語になりつゝある」と言わしめるほどのものでした。フランスやメキシコのエスペランティストから手紙をもらった四迷は、辞書を引きながら「造作もなく」内容を解読して返事を書いたといいます。四迷は同じ文章の中で、エスペラントの難易度について次のように語っています。

驚く程容易しい、此通り誰でも研究といふ程の研究はせずとも、文法の十六則に一通り目をほしさへすれば、一寸文章も書ける。こんな容易しい言語が世の中に又と有らうと思へぬ。

「文法の十六則」とは、先ほどご紹介したUnua Libroにある16項目の基本的な文法のことです。言い換えれば、エスペラントの骨格を成す文法は、たった16項目にまとめられるほどシンプルだということです。事実、筆者もウェブ上の解説サイトを通じて約2〜3ヶ月でエスペラントの基礎を習得することができたほどです。

エスペラントと言えば、日本文学に親しむ人にとって馴染み深いのはやはり宮澤賢治(1896〜1933)でしょうか。「ポラーノの広場」に登場するモリーオ、センダード、イーハトーヴォなどの地名は、(諸説あるようですが)盛岡、仙台、岩手と言った実在の地名をエスペラント風にアレンジしたものだとも言われています。

賢治本人はエスペラントを実用レベルまでマスターすることはできなかったようですが、自作の詩や短歌をエスペラントに翻訳しようとした痕跡が残っています。筑摩書房から刊行されている『新校本 宮澤賢治全集』第6巻には、賢治の「エスペラント詩稿」が収録されています。エスペラントとして熟達したものとは言えないにしても、「凶歳」という詩(後に「測候所」へと改稿されて『春と修羅』第2集に収録)の詩語「第六圏」が“la sesa ĉielo”(6番目の空)と訳されるなど、賢治独特の日本語の詩世界を読み解く助けになる資料だと言えるでしょう。

『新校本 宮澤賢治全集』第6巻
賢治の「エスペラント詩稿」が収められた筑摩書房版全集

また、考現学の創始者として知られる今和次郎こんわじろう(1888〜1973)は、自身の学問の名前をエスペラントで“modernologio”と名付けています。エスペラントの発音は「モデルノロギーオ」に近いのですが、後に訛って「モデルノロヂオ(モデルノロジオ)」という呼び方でも親しまれるようになりました。

オーストリア国立図書館のデータベースでは、1920〜1940年に発行された日本エスペラント学会(1919年創立)の機関誌La Revuo Orienta のスキャン資料を閲覧することができ、当時の日本でのエスペラント運動の熱気を伝えてくれます。

このほか、エスペラント、日本語、中国語で詩や童話を著し、秋田雨雀、中村つね、魯迅など日中の文化人と交流したロシアの詩人・児童文学者ヴァシリー・エロシェンコ(1892〜1952)、そのエロシェンコと親交の深かった周作人(1885〜1967。魯迅の弟でもある)、中国近代の重要な作家である巴金ばきん(1904〜2005)、日本の植民地支配下にあった朝鮮の先駆的なエスペランティストだった詩人の金億キムオク(1896〜?)など、20世紀前半の東アジアにはエスペラントにそれぞれの未来を託した人々が確かに存在していました。

植民地下の朝鮮の新聞に載った次のようなエスペラントの社説からは、当時エスペラントに託されていたものの一端をうかがい知ることができます。

Precipe ni koreoj, kiuj suferas kaj hontiĝas igite lerni kaj uzi la lingvon de venkintoj tute kontraŭvole, devas senti pli forte ol la aliaj memstarantaj popoloj la neceson de internacia lingvo. Tial estas la motivo por publikigi unu artikolon sur nia papero ĉiulunde.
(特に、勝者の言語を全く意に反して学び、使うことになって苦しみ、恥辱を感じるわれわれ朝鮮人は、他の自立した人民よりもより強く、エスペラントの必要を感じざるをえない。これがわれわれの新聞に毎週月曜、[エスペラントの]記事を掲載する動機である。)
――“Esperantismo”『東亜日報』1924年2月4日

21世紀のエスペラント

Group People Chatting Interaction Socializing Concept

筆者は実は、中学生の頃にもエスペラントを学ぼうとしたことがありました。当時、インターネットは存在したもののまだ昔ながらの「ホームページ」の時代でした。人見知りかつ引きこもりの素質があった当時の筆者には、「エスペラントを使って世界中の人と知りあい、友達になる」という目的がそれほど魅力的には思えず、たいして勉強もせずに投げ出してしまったのを覚えています。

しかし、SNSの普及はエスペラントの用途を大きく広げたと言えます。Facebookのグループ Esperanto には2万人余り(2016年7月現在)の人々が参加して情報交換を行っており、相互の友達リクエストも活発です。筆者もこのグループに参加して挨拶をして以来、ルーマニア、フランス、イラン、コンゴ、ネパール、中国、インド、ブラジル、メキシコなど、先の二葉亭四迷にならって言えば「思ひ掛けない処」からたくさんの友達リクエストが来るようになりました。ちなみに、Facebookは(不完全ながら)インターフェイスもエスペラントに変更することができ、「友達リクエスト」は“amikiĝpeto”と訳されています。

エスペラントで自作の歌を作って発表する動きも盛んです。下の動画は、Eterne Rimaという日本在住のヒップホップ・ミュージシャンによる“Samideano”(同志よ)という曲のミュージック・ヴィデオです。

multaj homoj miras kaj miras kial mi
Esperanton parolas
la klarigo estas simpla: mi tiel volas
kaj mi ne vivas en histori’
nek venas de l’ futur’
mi ekzistas hodiaŭ, antaŭ mi nenia mur’
(多くの人が不思議に思う 僕がなぜ
エスペラントを話すのか
理由はシンプル 僕がそう望むから
そして僕は歴史の中に生きているのでも
未来からやって来たのでもない
僕は今に存在している 僕の前に壁はない)
――Eterne Rima, “Samideano,” KantarVikiより

単語の形が規則的というエスペラントならではの特徴が、ヒップホップ的なライミング(押韻)によく合って、なかなかかっこいい響きを生み出しているように思います。

オフラインでの活動もオンラインに劣らず活発です。日本でも日本エスペラント協会のような全国的な団体が活動しているほか、エスペラントに関する貴重な資料を精力的に収集・保存している下関エスペラント図書館ほか、各地にエスペラント団体が存在します。

毎年7月末から8月初めにかけては世界エスペラント大会が開かれ、数千人規模の人々が世界各地から集まります。2015年に第100回の記念大会がフランス・リールで開かれ、2016年の第101回大会はスロヴァキアのニトラという街で、2017年の第102回大会は韓国・ソウルで開かれます。

生きたエスペラントに触れる機会は、現在でも世界中に散らばっているのです。

おわりに

エスペラントに限らず、今まで知らなかった言語を学ぶことは、今まで知らなかった世界に出会うことで頭の中の世界地図を書き換える経験だと言えるでしょう。筆者も単純な好奇心から、あるいは必要にかられて、いくつかの言語を学んできましたが、特定の国や民族に属さないエスペラントの場合、書き換えの度合いが他の言語に比べて大きいように感じます。過去から現在に至るまで、エスペラントが開く世界に触れることで自分の世界が広がることは、この言語を学ぶ大きな楽しみだと言えます。

この記事が公開される7月26日は、ザメンホフのUnua Libroが出版された日、つまりエスペラントが初めて発表された日にあたり、12月15日のザメンホフの誕生日と合わせて、多くのエスペランティストにとって大事な記念日です。“Feliĉan Esperanto-tagon!”(楽しいエスペラントの日を!)というお祝いの言葉が、オンライン・オフライン問わず世界中で飛び交っていることでしょう。


 

[筆者プロフィール]

相川拓也(あいかわ・たくや)
1987年、甲府生まれ。東京外国語大学、東京大学を経て、現在韓国・成均館大学東アジア学術院に留学中。専門は朝鮮近代文学。
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