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小説と同性愛の関係をどう読み解く?ゲイ文学の代表作とあわせて解説!

小説はセクシャリティーをどう描くのか。小説の読者は、作品からどのように〈性〉の要素を解釈すればいいのか。同性愛小説の代表作とともに解説します!

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皆さんは、「同性愛と小説」と聞いて、何を想像しますか?

漫画的な美少年たちが織り成すボーイズラブ?

あるいは、マッチョな肉体美?

それとも、うららかな百合(=レズビアン)ロマンス?

一口に「同性愛小説」と言っても、その〈性〉のあり方には、上に示した例の他にも数え切れないほどのパターンがあります。そこでこの記事では「同性同士の恋愛を描いた小説」を特集するとともに、多様な〈性〉のあり方を小説の読解に役立てる方法を解説いたします。

セックス/ジェンダー/セクシュアリティーについての基礎知識

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さて、小説の中の同性愛について解説する前に、生物学的な性差を表す「セックス(sex)」、社会的な性差を表す「ジェンダー(gender)」の区別についてまずはおさらいしておきましょう。

一般に、世の中一般に流通している「女らしさ」「男らしさ」のイメージはこのジェンダーの産物なのですが、ここでは独身女性のA子さんと母親との間の次のような架空の会話を用いることで、私たちの想像力にジェンダーがどのように影響しているかを見てみることにします。

事例1: A子さんの欲望はどこにある?

母親:あなた、そんなことじゃお嫁にいけなくなるわよ。

A子:そんなこと、って言ってもねえ……。

母親:何よ。

A子:なんでもない。

母親の「お嫁にいけなくなるわよ」という何気ない発言の中には、「女性に生まれた以上、いつかは一人の男性に恋をし、嫁いでいくもの」(男性の場合はその逆)という今ではやや時代がかったジェンダー観が色濃く現れています。

その一方で、「そんなこと、って言ってもねえ……」と何かを口ごもるA子さんの欲望のありかは、傍にいる母親にもわからないものです。実際のところ、彼女の欲望は「社会的成功」に向けられているかもしれないし、「悠々自適な独身生活」に向けられているかもしれません。さらには、「同性」に向けられていることだってあるかもしれないのです。

そして、私たちが「A子さんの欲望のありか」と〈性〉とを結びつけて語るとき、私たちはA子さんの「セクシャリティー(sexuality)」について語っていることとなります。セクシャリティーとは、単純に「(個人の)性的嗜好」として解釈されることも多い言葉ですが、「私たち自身が何者であるか。どんな人間関係を経験し、そして何を感じるか」というより根源的な問いとも結びついています。セクシャルマイノリティーの人たちを指す「LGBT」という言葉も今ではだいぶ一般的なものとなってきましたが、そのシンボルが虹色の旗であることが示しているように、セクシャリティーには「男と女」では切り分けられない千差万別の色があるのです。

 

小説と〈性〉の解釈

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ここでもし、先ほどのA子さんと母親とのやり取りが小説の一場面に登場していたとしましょう。すると当然、読者である私たちはA子さんの口ごもった「何か」について、作品の内外におけるありとあらゆる文脈と照らし合わせて想像し、解釈を試みることでしょう。

人の抱える憧れや欲望、そして愛着の向かう先はとにかく多種多様なものですが、私たちは想像力を働かせることによって、そのすべての可能性を受け入れることができます。そのようにして豊かな想像力を駆使することによって、私たち読者は世の中の「女らしさ」「男らしさ」を規定している様々な固定観念からも自由になることができるのです。

 

事例2:ホームズとワトソンはゲイカップル?

「バディ萌え」について解説したこちらの過去記事でも紹介した通り、シャーロック・ホームズシリーズにおける「ホームズ」と「ワトソン」との関係には同性愛的な感情が介在していると読むことができます。

この解釈に対し、「ワトソンは妻帯者なのでそんなことはありえない」という反論はあまり意味をなしません。なぜならば、その反論は「異性愛的な欲望のモデル」、つまり「女は男を欲望し、男は女を欲望する。それ以外の可能性は存在しない」という固定観念を前提として初めて通用するものだからであり、その前提の時点で同性キャラクターの間にある恋愛感情の可能性を(どれだけそれを匂わせる描写があったとしても)あらかじめ排除してしまっているからです。

つまり読者自身が「恋愛=男女間に限られるもの」という思い込みを捨てて小説を読みさえすれば、すべての小説は同性愛小説として読まれうる余白を残しているということにもなります。このように、多様な〈性〉の解釈を小説の読解に持ち込むことは、果たして作品の価値を歪める結果を生むでしょうか? むしろ、〈性〉にまつわる豊かな解釈は、様々な「読み」の可能性を開くという意味で、作品にさらなる奥行きと深さを与え、その価値を高めるきっかけにもなるでしょう。

それでは、次の章では具体的に「同性を思い慕う」という感情について様々な気づきや発見を与えてくれるゲイ文学の代表作をご紹介します。

 

ゲイ文学の代表作

オスカー・ワイルド『ドリアン・グレイの肖像』

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「同性に恋する」という感情について、美学的かつデカダンなアプローチから描いた傑作といえばオスカー・ワイルドの『ドリアン・グレイの肖像』を外すことはできません。うら若き美青年であるドリアンは友人の画家、バジルが描いた自身の肖像画に惚れ込み、絵に描かれた時のまま衰えない美貌を手にすることを願います。

その後、快楽主義者であるヘンリー卿に吹き込まれた数々の悪徳に手を染めていくドリアンはある日、彼を崇拝し愛するバジルを殺してしまいます。しかし、奇妙なことに彼の〈悪〉のしるし、〈醜さ〉のしるしはすべてバジルの描いた肖像画の方に吸い寄せられ、ドリアン自身の容貌は無垢な若々しさを留め続けるのです。

この「見た目」と「道徳」をめぐる世にも奇妙な作品が描かれた背景には、ダーウィンの進化論に端を発する「観相学」と呼ばれる19世紀末の科学的言説の流行があります。当時、同性愛は「病」としてカテゴライズされ、犯罪者、精神病者、その他諸々の規範からはみ出した存在とともに、その特徴となる見た目について分析するような論文が数多く書かれたのでした。いわば、ドリアンの肖像画に現れる様々な「醜さ」は、そうした規範からの逸脱を示すサインでもあったのです。

しかし、そのような(擬似)科学的な言説を背景にしているからといって、この小説は必ずしも「同性愛者」と「犯罪者」を同等視する当時の偏見を承認している、というわけではありません。むしろ、そのような暴論を逆手に取りつつ、社会の規範となるような道徳的感情をあざ笑うような仕掛けを持った小説となっているのです。作者であるオスカー・ワイルドは、「近代最初のゲイ文化人」として21世紀の現在に至るまでゲイ文化のアイコン的存在であり続けていますが、『ドリアン・グレイの肖像』にもまた、世の偏見に対する同性愛からの知性とウィットを駆使したカウンター・パンチのあり方が隠されていると言えるでしょう。

さて、「美しさの象徴」として男性キャラクターを持ち出し、その存在によって狂わされていく人間関係を描いた小説は、その後2o世紀に入ってからも数多く執筆されます。もしも『ドリアン・グレイの肖像』がお気に召したのであれば、次は「美少年への愛」に耽美する作家を描いたトーマス・マンの小説、『ヴェニスに死す』を読んでみてはいかがでしょうか?

 

E. M. フォースター『モーリス』

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ヨーロッパにとって20世紀初頭の数十年は、先述した観相学の知識が優生学的な思想に転化し、同性愛を遺伝的な悪として排除しようとする潮流が生まれた時代でもありました。そんな中、自ずと「同性が同性に恋する」という感情を描いた小説を発表することも困難になっていきます。

E. M. フォースターの半自伝的な小説である『モーリス』は、1913年に執筆されたものの、フォースターの死後1971年になって初めて出版されたという不幸な経緯が示している通り、そんな時代に同性愛感情を抱えて生きることの厳しさが滲み出ている小説です。ケンブリッジに通う凡庸なエリートであるモーリスは、同級生であるクライヴと惹かれあい、深く精神的な情愛に根ざした関係を築きます。

しかし、高潔なクライヴが肉体関係をともなわないプラトニックな恋愛を貫き通したことで、二人の関係は次第にこじれていくことに。その後、政治家を目指すクライヴは上流階級の女性と結婚し、モーリスもまた彼との間に過去の恋愛を清算したかのような友情を取り戻したかのように思えましたが、無意識にこぼれ出た満たされない思いをクライヴの家の使用人であったアレクに見透かされ、彼と肉体関係を結ぶこととなり……。

だが、ベッドに戻ったモーリスの耳にかすかな音が届いた。それはまるで彼の身体の中でしたかのような親しみのある音だった。モーリスは身体の内部がぱちぱちと音を立てて燃えるように感じながら、月光を浴びた梯子の先がこきざみに動くのを凝視していた。頭部と肩が現れ、男の姿が浮かび上がった。ほとんど知らないその誰かは、手にした銃を念入りに窓の敷居に立てかけ、静かにベッドに近寄ってきた。そして、モーリスのかたわらにひざまずき、囁いた。「おれを呼んだでしょう?ーーわかってますーーわかってる」そして彼はモーリスに触れた。

E. M. フォースター『モーリス』(片岡しのぶ訳)より

冴えない青年であったモーリスが、プラトニックなクライヴ、自分の欲求に素直なアレクという2人の人物との間にかわすロマンスの対比も面白く、作品にゲイロマンスを求める読者には「1粒で2度美味しい」小説であると言えますが、その2つの関係の間にあるモーリス自身の数々の悩みと苦痛の描かれ方がこれ以上なくリアルであるため、優れた青春小説としての読後感も持ち合わせている作品です。

 

三島由紀夫『仮面の告白』、『禁色きんじき

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『仮面の告白』は三島由紀夫による2作目の長編小説であり、三島自身の苦悩を作品に落とし込んだ作品です。

女性に対して不能である“私”は幼少期、男の子の玩具を禁じられ、遊び相手が女の子だけという環境で育っています。そんな“私”を強く惹きつけたのは、汚穢屋おわいや(糞尿汲取人)の身体でした。

私はこの世にひりつくような或る種の欲望があるのを予感した。汚れた若者の姿を見上げながら、『私が彼になりたい』という欲求、『私が彼でありたい』という欲求が私をしめつけた。その欲求には二つの重点があったことが、あきらかに思い出せる。一つの重点は彼の紺の股引であり、一つの重点は彼の職業であった。紺の股引は彼の下半身を明瞭に輪廓づけていた。それはしなやかに動き、私に向って歩いてくるように思われた。いわん方ない傾倒が、その股引に対して私に起った。何故だか私にはわからなかった。

『仮面の告白』より

病弱であった“私”は、血色のよい美しい頰と輝く目を持ち、しなやかに動く汚穢屋(糞尿汲取人)になりたいと憧れるようになります。さらに初めての恋をした相手も野蛮でたくましい体つきの同級生、近江でした。“私”は鍛え上げられた肉体に強い執着心とともに、愛する相手と「寸分たがわず」似たいという熱望を抱きます。

それと同時に、溺愛されて育った“私”は「強くならねばならぬ」という思いにも捉われていました。ナルシスティックな自己愛とともに、肉体的な強さ、精神的な強さを志向するマッチョ志向な美学を描いた作品です。

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三島の代表的な同性愛小説としては他にも『禁色』を挙げることができますが、この作品で三島は『仮面の告白』のマッチョな美学をさらに掘り進めていった結果、「女性への復讐」という危うげなテーマにまでたどり着いています。

『禁色』の主要人物の1人である檜俊輔は、これまでの人生の中で幾度も女に裏切られてきた過去を持つ老作家。そんな檜は、康子という名の美女を追って訪れた伊豆半島で同性愛者の美青年、悠一に出会います。檜は女性への復讐を果たすために悠一と契約を交わし、彼を康子と結婚させます。

その他にも、鏑木信孝という同性愛者と悠一との愛人関係、鏑木夫人と悠一との奇妙な友人関係など、〈性〉を中心とする複雑きわまる人間関係が展開されていきますが、そのひとつひとつを論理的な筆致で描き切る力量は三島由紀夫ならではのものでしょう。例えば、悠一と妻・康子との同衾の場面は次のように描かれます。


とまれかくまれ、悠一の寝床には、もう一人の美しい雄がなければならなかった。彼の鏡が、女との間に介在しなければならなかった。その助けを借りずには、成功は覚束なかった。彼は目をつぶって女を抱いた。その時悠一は自分の肉体を思い描いていたのである。暗室の内の二人はこうして四人になった。というのは、実在の悠一と少年に変容した康子とのまぐわいが、女を愛することができると想像された仮構の悠一と実在の康子との媾いと、同時に進行する必要があったからである。

『禁色』より

この場面に描かれているのは異性愛者と同性愛者との、互いに交わらない平行線のような関係です。しかし、物語が後半に差し掛かるに連れ、悪だくみの主である檜にも態度の変容が現れ、彼もまた悠一に恋をするようになります。同性愛者を道具のように利用することによって仕組まれた女性への復讐計画が、鏑木夫人のような女性の心遣いと、檜自身に芽生えた同性愛感情によって瓦解していくことになるのです。

読者もまた、「男女は憎みあうもの」「異性愛者と同性愛者は相容れない」という檜の先入観が覆されていく過程において、ジェンダーとセクシャリティーにまつわる認識を新たにすることでしょう。このように『禁色』が単なる「男色小説」として消費されるにとどまらない凄みをたたえているのは、〈性〉をめぐるプロットにおいて一筋縄ではいかない仕掛けがなされているからなのです。

 

おわりに

この記事では、小説における同性愛要素の読み解き方にはじまり、代表的な同性愛小説を紹介してきました。

小説家は作品を執筆することを通じて、様々な人間模様や欲望のあり方を想像し、作り上げていきます。同じように読者もまた、多種多様な欲望をその作品から感じ取ることができます。読書とはこれほどまでに自由で創造的な行為なのであり、そこに描かれている〈性〉の解釈の仕方もまた然り。

皆さんも次に小説を読む際には、〈性〉にまつわる先入観を捨てて、その人間模様を楽しんでみてはいかがでしょうか?

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