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【6月19日は桜桃忌】資料でたどる、太宰治の晩年とその死

太宰治を偲ぶ日として知られる「桜桃忌」は、6月19日です。命日ではないこの日がなぜ太宰を偲ぶ日となったのか、また、なぜ太宰は一貫して“死”に引き寄せられ続けたのか──。ざまざまな資料から、太宰の「晩年」を紐解きます。

6月19日は、小説家・太宰治を偲ぶ日である「桜桃忌」。俳句の夏の季語でもあるこの日は太宰治の“命日”として知られていますが、正確には、入水自殺を遂げた太宰の遺体が見つかった日です。奇遇にもこの日は彼の誕生日でもあったことから、死後、桜桃忌には太宰を慕う人々が墓所を訪れ、参拝するようになりました。

晩年の太宰は、どのような生活を送っていたのでしょうか。そして、なぜ自ら死へと向かわざるを得なかったのでしょうか──。今回は、太宰をよく知る編集者や家族による回想録を参照しつつ、太宰治の晩年と、その死を紐解いていきます。

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「おまえだけが女じゃないんだ」──1度目の心中未遂事件

太宰は、生前から死への欲求に抗いきれず、幾度も自殺未遂をしていたことで知られています。もっとも有名なのは、バーの女給との1度目の心中未遂事件ではないでしょうか。

事件が起こったのは1930年。当時の太宰は故郷の青森から上京し、東京帝国大学仏文科の学生として大学に通いはじめると同時に、小説家として身を立てるために井伏鱒二に弟子入りしたばかりでした。太宰はこの年の秋、青森で知り合った芸者・小山おやま初代をひっそりと上京させ、彼女との結婚の意志を固めていましたが、故郷で名家であった津島家(太宰の生家)の人々は、芸者との結婚に猛反対します。太宰は、兄に津島家からの分家除籍という厳しい条件を突きつけられ、それを飲んだうえでなお、初代との結婚の道を選びました。

……ところが太宰はこのとき、結婚に際しあれこれと手を尽くし生家との縁も切った自分とは対照的に、初代が平然としているように見えたことが不満だったようなのです。太宰は分家除籍からわずか10日後に、銀座のバーで知り合ったばかりの女給・田部シメ子(別名・田辺あつみ)と鎌倉の海で心中を図りますが、この原因はいうなれば初代への当てつけであったと、太宰自身がのちに自伝的小説『東京八景』のなかで綴っています。

ただいま無事に家に着きました、という事務的な堅い口調の手紙が一通来たきりで、その後は、女から、何の便りもなかった。(中略)私には、それが不平であった。こちらが、すべての肉親を仰天させ、母には地獄の苦しみを嘗めさせて迄、戦っているのに、おまえ一人、無智な自信でぐったりしているのは、みっとも無い事である、と思った。毎日でも私に手紙を寄こすべきである、と思った。私を、もっともっと好いてくれてもいい、と思った。

銀座裏のバアの女が、私を好いた。好かれる時期が、誰にだって一度はある。不潔な時期だ。私は、この女を誘って一緒に鎌倉の海へはいった。(中略)Hは、自分ひとりの幸福の事しか考えていない。おまえだけが、女じゃ無いんだ。おまえは、私の苦しみを知ってくれなかったから、こういう報いを受けるのだ。ざまを見ろ。

太宰はこの文章のなかで“H”と初代をほとんど名指ししながら、他の女性との心中未遂の理由を悪びれずに述べています。初代が初等教育しか受けておらず、“毎日でも手紙を寄こす”ことなどできないであろうことは太宰自身にも分かっていたはずなのに、あまりにも自分勝手な言い草だと言わざるを得ません(初代は当然、この事件を知り激怒しました)。

結果的に不運にも田部シメ子のみが亡くなり、太宰は海辺で倒れているところを発見され、生き残ります。この一件は前述のとおり、太宰がまだ若い頃の事件ではありますが、太宰の生前の友人でもあった編集者の野原一夫は、

私には、この田辺あつみ(※田部シメ子)との出会いが、太宰の死への決意を促したように思われる。いわば、死へのスプリング・ボオドになったように思われる。
──『太宰治 生涯と文学』より

とのちに振り返っています。

「死ぬ気で恋愛」の末に訪れた、不安定な晩年

太宰はその後の1930年代、『文藝』に発表した初期の短編『逆行』が第1回芥川賞の候補となるものの落選してしまい、選考委員であった川端康成に「作者、目下の生活に厭な雲あり」と痛烈に私生活を批判されます。この頃の太宰は、腹膜炎の手術の治療で用いた鎮痛剤・パビナールの依存症となり、大学を学費未納で除籍されたり、初代とは心中未遂の末に離別したり──と、まさに波乱万丈としか言いようのない日々を送っていました。

そんな太宰にとって契機となったのは、石原美知子との結婚です。太宰は1938年、井伏鱒二の紹介によって知り合った美知子と祝言をあげ、それまでの生活を猛省し“家庭人”になろうと努めます。精神が安定していたこの時期は創作活動も積極的におこない、『富嶽百景』『駈け込み訴へ』といった優れた短編を多数発表しました。次第に太宰の作品は文壇での評価も高まり、戦後には一躍、人気作家の仲間入りを果たします。

ところが、1946年の秋に疎開を経て東京に戻ってきた太宰は、翌年の春に屋台のうどん屋で美容師の山崎富栄と出会い、「死ぬ気で恋愛してみないか」と持ちかけます。富栄と恋に落ちた太宰は同時期に長編小説『斜陽』の連載を『新潮』誌上ではじめ、人気を博していましたが、この頃に異常な量の飲酒をするようになります。かねてからの胸の持病もあり、太宰の健康を案じた野原一夫が8月、家を訪れて養生してほしいと伝えると、太宰は声を押し殺して泣いたと言います。

二十九日の夜、私は見舞いに行った。辞去しようとすると太宰は声をひそめて、「帰りにサッちゃんのところに寄ってくれないか。あと十日もすれば起きられるから心配しないようにと言ってくれないか」と言った。太宰は山崎富栄をサッちゃんと呼んでいた。
病状を訊かれて、頬がすこしこけたようだと言うと、富栄は泣きそうな顔をした。

からだの衰弱は、さらに目立ってきた。私が太宰の喀血を見たのは、たぶん十月頃だっただろう。富栄の部屋で、下に新聞紙をしいたバケツを両手でつかみ、背中をまるめ、かなり大量の血を吐いた。私は肝をつぶしたが、度々のことだったのだろう、富栄は表情ひとつ変えず、太宰の背中を静かにさすっていた。
──『太宰治 生涯と文学』より

野原はこのときに富栄から、太宰がたびたび「死にたい」という言葉を漏らしていることを聞きます。さらに10月、太宰は出版社・八雲書店から『太宰治全集』を刊行することを決定。当時、生前の作家が“全集”と銘打った作品集を出すのは極めて異例であったことからも、すでにこの頃、太宰が死への決意を固めつつあったことが見てとれます。

玉川上水での入水──そして「桜桃忌」

1948年、大人気作家となっていた太宰は旺盛に執筆活動をおこなっていました。かの有名な『人間失格』、そして『桜桃』などの短編を書き上げたこの年に、太宰はついに死を迎えることとなります。

6月、野原と同じく太宰の身を案じていた当時の筑摩書房の社長・古田あきらが、太宰の師である井伏を訪ね、「このままでは太宰さんは駄目になってしまう、いまが瀬戸際のような気がする」と話します。古田は、食料は自分が郷里の信州から持っていくから、太宰をかつて住まわせていた御坂峠に連れていき、静養させてくれないか──と井伏に提案していました。この計画の準備のために古田が信州に帰っていたちょうどその頃の12日、太宰は昼過ぎに古田の住まいを訪れています。

節子(※古田と同居していた、古田の姪)は、奥の離れの縁先で縫物をしていた。人の気配に目をあげると、庭先づたいに、いくぶん前こごみで歩いてくる太宰の姿が目に入った。グレイのズボンに白いワイシャツで、たしか下駄履きだったと節子の記憶に残っている。とすれば、太宰が玉川上水に入水したときと同じ服装である。(中略)
顔見知りの節子と目が合うと、太宰は、
「古田さん、いる?」
「いま、信州に行っております。あしたあたり、帰ってくるはずなのですけど」
太宰は落胆の色を見せ、うつむいてしばらくたたずんでいた。
「よろしかったら、おあがりになって、お茶でも……」
太宰は視線を宙に迷わせていたが、
「いや、帰ります。古田さんに、くれぐれもよろしく」
立ち去っていく太宰のうしろ姿がひどくさびしげだったと、節子は回想している。
──『太宰治 生涯と文学』より

翌日の6月13日の午後、太宰と富栄は仕事部屋にしていた小料理屋「千草」から富栄の下宿に移り、身辺の世話をするとともに遺書をしたためました。夜になってから、富栄は小さな瓶にウイスキーをわけてもらうために何度か「千草」を訪れたと言います。わざわざボトルで受け取らず小分けに飲酒をしたのは、おそらく太宰が泥酔することを恐れたためでしょう。

その日の未明、太宰と富栄は、富江の下宿から徒歩5分ほどの玉川上水の土手で入水。直前にふたりは、富栄が持っていた青酸カリを飲んだ形跡がありました。翌日に夫人の美知子によって捜索届が出され、6月19日の早朝、入水した場所から2kmほど下流の場所で、腰に巻かれた赤い紐で結ばれた太宰と富栄の遺体が見つかりました。古田は捜索届が出されていることを知った時点で太宰の死を悟り、「あのとき自分が会えていれば、太宰さんは死ななかったかもしれない」と大変悔やんだと言います。亡くなったとき、太宰は38歳、富栄は28歳でした。

その後、美知子は太宰の遺骨を現在の三鷹市下連雀にある禅林寺の、森鴎外の墓の斜め前に葬りました。これは生前、太宰が

この寺の裏には、森鴎外の墓がある。どういうわけで、鴎外の墓がこんな東京府下の三鷹町にあるのか、私にはわからない。けれども、ここの墓所は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨も、こんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら、死後の救いがあるかも知れないと、ひそかに甘い空想をした日も無いではなかった
──『花吹雪』より

と短編小説『花吹雪』に記していたことを受け、その希望を叶えたため。太宰の死から1年後の1949年、太宰の生前の友人たちが「年に1度、禅林寺で太宰を偲ぶ会をしよう」と提案し、太宰の誕生日でもあり、遺体が発見された日でもある6月19日がその日に選ばれたのでした。

「桜桃忌」の名は、太宰と同郷の津軽の作家今官一氏によってつけられた。いろんな名がもち寄られ、なかには“メロン忌”などというものがあったのだが、圧倒的な支持を得て“桜桃忌”に決定した。
太宰の死の直前の名作「桜桃」にちなむものだが、鮮紅色の宝石のような北国を代表するこの果物は、鮮烈な太宰の生涯と珠玉のような短編作家というイメージに最もふさわしかったからである。
──桂英澄『桜桃忌の三十三年』より

こうして名づけられた「桜桃忌」は太宰の死から70年以上が経過したいまでも、多くの太宰ファンが禅林寺を訪れ、その死を悼む日となっているのです。

おわりに

1936年、当時27歳だった太宰が初めて発表した作品集の名前が『晩年』であったことは、よく知られていると思います。この短編集の最初に収録されている小説『葉』は、こんな印象的な文章からはじまります。

死のうと思っていた。ことしの正月、よそから着物を一反もらった。お年玉としてである。着物の布地は麻であった。鼠色のこまかい縞目が織りこめられていた。これは夏に着る着物であろう。夏まで生きていようと思った。
──『葉』より

夏に着るための着物をもらったから、夏まで生きていようと思った──。とてもシンプルではあるものの、どこか胸を打つ言葉です。常に「死」への誘惑につきまとわれていた太宰が38歳まで生き延びられたのは案外、『葉』に綴られているような美しくもささやかな理由をこつこつと積み上げ、延命装置のように使っていたからかもしれない、などと想像してしまいます。

また、太宰夫人の美知子は、結婚当初に太宰の作品を読み、こんな感想を抱いたと回想しています。

こんなに自分のことばかり書いて──この人は自分で自分をついばんでいるようだ
──津島美知子『回想の太宰治』より

“自分で自分を啄み”続けた末に、自らの手でその命を絶ってしまった太宰治という稀有な作家。年に一度、桜桃忌には、その作品と人生に思いを馳せてみるのもよいかもしれません。

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