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ノーベル文学賞受賞! ミュージシャンであり詩人、ボブ・ディランの素顔とは。

ビートルズにマリファナを勧めたのはボブ・ディランだった? ノーベル文学賞を受賞したボブ・ディランの破天荒エピソードを紹介するとともに、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』との関連などから、その文学性を探ります!

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ボブ・ディランと文学

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(Photo By badgreeb RECORDS

さて、ここまでは主に1960年代におけるボブ・ディランの破天荒エピソードを紹介してきましたが、今回のノーベル文学賞受賞が示している通り、その間もディランは自身の発表する楽曲を通して深い詩世界を構築していきました。

その作曲・作詞の才能は、後に詳述する村上春樹だけでなく、『日の名残り』『わたしを離さないで』どの代表作で知られる日系イギリス人作家、カズオ・イシグロなど、後の世代の文学者たちにも深い影響を与えています(ボブ・ディランを尊敬するイシグロは、当初ミュージシャンを目指していた)。

実際に、ノーベル賞受賞のはるか前からボブ・ディランの詩は高い文学的評価を受けており、『カサブランカ』などの傑作映画に携わったプロデューサー、ローレンス・J・エプスタインは、ディランを「ロマン派の系譜に連なる詩人」「反逆の詩人」と称賛しています。

では、ボブ・ディラン本人の文学的ルーツは、一体どんなところにあるのでしょうか? その「反抗者(rebel)」としての立ち位置は、「ビートニク」と呼ばれた1950年代〜60年代に流行したアメリカ文学の潮流とも密接に結びついていました。

 

ボブ・ディランとビート・ジェネレーション

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(Photo By Anjo Bolarda

ボブ・ディラン自身が、「プロテスト・ソングを歌うようになったのはジャック・ケルアックの影響が最も大きい」と話していることからも分かる通り、1950年代のアメリカ文学は、彼の詩世界を理解する上で非常に重要です。

ジャック・ケルアックといえば、「ビート・ジェネレーション」と呼ばれる反骨精神に満ちた世代を代表する作家ですが、そんなケルアックの『路上』(On the Road)が出版された1957年以降、ハリウッドを含むアメリカのポピュラーカルチャーは、いわゆる「ビートニク」と呼ばれる思想・ライフスタイルに席巻されることになりました。当時のFBI長官J・エドガー・フーヴァーの有名な言葉にもある通り、コミュニスト(共産主義者)とビートニクの詩人・作家たちはアメリカにとって脅威だとみなされていたのです。

ビートニクたちにとって「文学」とは、それまでの社会的規範に対してノーを突きつけ、新しい世界のあり方を模索する表現方法の一つであり、ビート・ジェネレーションに分類される作家たちも戦後アメリカ社会の何不自由ない物質的豊かさとその欺瞞に苛立ちを覚えていました。1941年生まれのディランにとって、1914年から29年の間に生まれたビート・ジェネレーションはかなり上の世代にあたりますが、ディランはその遺産を受け継ぎ、現状に抗議するために詩を書き続け、自らを取り巻く社会と常に格闘し続けたのです。

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1962年にリリースされた「風に吹かれて」(Blowin in the Wind)という曲の中でディランは、いつまでも争いを止めない人間の愚かさを直視し、虐げられた人々の傍に寄り添う言葉を紡ぎました。この歌は発売当時公民権運動の賛歌として幅広い層に受け入れられ、また、ベトナム戦争が本格化した60年代半ば以降は反戦歌としても愛唱されたのです。

また、殺人の冤罪で投獄された黒人ボクサー、ルービン・ハリケーン・カーターの無実を訴えたプロテスト・ソングとして有名な「ハリケーン」という曲もあります。これらはほんの一部ですが、ディランは50年以上にわたって現状を打破しようと格闘する人々とともにいたのです。

 

あの村上春樹にも影響を与えた、ボブ・ディランの“絵画性”

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(Photo By kate hiscock

このように常に既存のものを壊し新たなものを生み出し続けるディランの詩について、ノーベル文学賞の選考に関わったスウェーデン王立学士院会員サラ・ダニウス氏は、ホメーロスやサッフォーといった詩人を引き合いに出しつつ、「卓越した韻の踏み方とリフレイン(節の終わりの繰り返す語句)の置き方、また思考の絵画的表現」を評価しました。「韻の踏み方」と「リフレイン」と言えばいかにもミュージシャンの得意分野ですが、「思考の絵画的表現」とは具体的に何を指すのでしょうか?

ここで、村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を手掛かりにして、ボブ・ディランというシンガーソングライターに見出された文学性の特質についてもう少し掘り下げてみたいと思います。

『世界の終り』の物語終盤、主人公の「私」が、港の人気のない倉庫のそばに停めた車の中でボブ・ディランのテープを聴きながら考えるシーンがあります。

 

正面には海が見えた。荷を下ろし終えて吃水線の浮かびあがった古い貨物船も見えた。かもめが白いしみのようにあちこちにとまっていた。ボブ・ディランは『風に吹かれて』を唄っていた。私はその唄を聴きながら、かたつむりや爪切りやすずきのバター・クリーム煮やシェーヴィング・クリームのことを考えてみた。世界はあらゆる形の啓示に充ちているのだ。

村上春樹『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』

 

この場面で「私」は、ディランの代表曲「風に吹かれて」を聴いています。すでに述べたように、この曲でディランは世界のさまざまな事象や人々に思いを馳せて、それらを歌にしています。そして、「私」はこの曲の詩が聴きながら、「かたつむりや爪切りやすずきのバター・クリーム煮やシェーヴィング・クリーム」について考え、「世界はあらゆる形の啓示に充ちているのだ」と思います。

ディランの詩に比べると、村上春樹「私」の考えている内容はとても個人的なもののような気もしますが、ディランの言葉は「私」の中にあるものに反応し、「私」の想像力を「世界」というレベルにまで広げていくのです。「車内」という狭い空間の中に、ありありと映し出される世界のディテールと、そのイメージが掻き立てる愛おしさ。この“情景を喚起する力”こそ、ボブ・ディランの「思考の絵画的表現」と言えるでしょう。

さらに、「私」がディランの「唄を聴きながら」考えているというプロセスにも注意が必要です。「私」はここで、単にディランの歌詞を読んでいるのではなく「聴いて」いるのであり、いわば「唄う」という行為が生み出すメロディとともに言葉を聴き、それに反応しているのです。ディランの詩の文学性は、過去にノーベル文学賞を受賞した詩人が用いていたような韻律や押韻という技法だけでなく、そこにメロディを含めたことによって感得されるようなものだったのです。

 

おわりに

今年のノーベル文学賞がミュージシャンであるボブ・ディランに授与されたことにより、ますます明白になってきたのは、〈文学性〉というものがいわゆる“文字芸術(=文字を使って表現された芸術)”に限定されないということです。ディランの楽曲を聴いて文学性を感じるのであれば、映画やテレビドラマを観たり、ロールプレイングゲームをプレイしたりして、文学性を感じるのも自由なのです(もはやこうなってくると、「文学」性という言葉が適切なのかという議論にまで発展しそうですが。)

いずれにせよ、これまでの受賞者は小説家、戯曲作家、詩人、評論家、歴史家といった「書く」人が中心でした。ですが、これからはシンガーゾングライターを皮切りに、映画監督、漫画家、ゲームクリエイターなどが新たな「文学」性を生み出し、ノーベル文学賞を受賞するかもしれませんね。

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