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【特集】太宰治の世界

「生まれて、すみません」。38年という短い生涯で大きな足跡を遺した太宰治。太宰治の代表作『人間失格』をもじった評伝劇『人間合格』の再演にあたり、太宰の生涯を特集します。豊富な写真とともに自筆原稿も掲載。必見です。

文・小田豊二

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走れ修治

人生はマラソンだという人がいる。
山あり、谷あり、心臓破りの丘あり。
だが、いったんレースを棄権したら、
そのあとどうなるのか――。
少年津島修治、
その時、何も知らなかった。

あれは、明治四十年六月のことでございました。
青森県津軽郡金木村の中心部に、目を見張らんばかりの豪邸が落成いたしました。宅地だけで約六百坪、一階に十一室、二階に八室。しかも、家のまわりは、高さ四メートルの煉瓦塀で囲まれておりまして、まるで宿屋のような大変に大きな家でした。
総工費は四万円。当時、資本金が一万円あれば、銀行を設立し、自分が頭取になれたくらいですから、この家のすごさがおわかりになると思います。
しかも、この誇らしげな家を守るように、役場や郵便局、銀行、医院、警察署などが取り囲んでおりますから、まさにこの家は、金木村のへそ。このゴミでも取ろうものなら、村全体がおなかをこわすといった存在でございました。
さて、この家。持ち主は津島源右衛門、もちろん、この土地の権力者。小作人が三百人もいる大地主というだけでなく、金貸し業を基盤とした新興商人、多額納税による貴族院議員有資格者というわけですから、まごうことなき、この村のボス、いや、青森県全体の「ドン」のひとりだったかもしれません。
この家が完成いたしまして、源右衛門ほか三十人の家族、使用人が住みはじめます。そして、二回の冬を越しました明治四十二年六月十九日、この家に移って初めての子供が誕生しました。
産声が上がったのは、裏階段の横の大きな部屋。誕生したのは六男、源右衛門の何と十番目の子供でした。
もうおわかりでございましょう。
この子が津島修治、そう、のちの太宰治でございます。

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オガサ、いや、津軽弁でお母さんのことですが、母親たねが大変に病弱だったこともありまして、修治は当時津島家に雇われておりました乳母に育てられます。ところが、この乳母がすぐに再婚で去っていったため、娘四人を連れて出戻っていた、母たねの妹きゑに預けられます。
そして、この関係は修治が小学校にあがるまで続きましたから、修治は叔母を実母だと思っていたようです。
そうそう、太宰の幼年時代を語るのに、この人を欠かしてはいけません。名作『津軽』に登場する女性、越野タケ。当時はまだ近村タケといってましたが、彼女が修治の面倒を一切みたようでございます。
このタケ、津島家の小作人の娘ですから、「坊っちゃま」を育てるのに慣れてない。ですから、本来なら小作人の子供たちと遊んではいけない修治を家族の目を盗んでは、土地の子供たちの遊び場に連れていったようです。
太宰が子供時代、大変に腕白だったと聞くと、「あら、意外ね」と思われる方もいらっしゃると思いますが、このあたりは、勇気あるタケの行動のおかげだったのかもしれません。
実際、修治は金持ちのボッチャにしては、のびのびした少年らしい少年だったようです。自作の漫画を描いては声色を使って演じてみせて、小作人の子供たちの拍手を浴びたかと思うと、次の日は小学校の教師をからかって、廊下に立たされてみたり……。
特に、学校の先生を驚かせたのは作文。小さい頃から、お伽噺が好きだったこともありますが、やはり栴檀は双葉より芳し、でございましょう。すでに文学者の片鱗がキラキラと輝いていたといってもいいのではないでしょうか。
多少、実母との縁が薄かったにせよ少年修治は、このように大変に幸福な人生のスタートを切りました。
足音高く、大きなストライドで、精一杯手を振り、靴ひももまったくゆるむことなく、未来に向けて人生を駆け出したといっていいでしょう。

メロスはすぐに出発した。
初夏、満天の星である。
(走れメロス)

大正十一年三月、修治は六年間全甲、もちろん首席で金木第一尋常小学校を卒業します。まさにトップをきって、人生のマラソンレースを走りはじめたのです。
ところが、そう、思わぬことが起こります。尋常小学校を卒業すれば、次は当然、県立中学校というコース。それが、学力補充という修治にとっては屈辱的理由で一年間、郊外の明治高等小学校へ行かなければならなかったのです。
これはショック。いや金持ちの「ボッチャ」にとっては屈辱そのもの。小学校では一番なのに、なぜ中学に行けないのか。冗談じゃないよの心境だったと思います。
ちょっと不貞腐れた修治、この時期に不遜な態度を学校であらわします。ケンカはする。教師に逆らう。やがてあっという間の一年がたち、大正十二年四月、修治は一年遅れで名門青森中学に入学します。その直前に、貴族院議員だった父が亡くなったこともあって修治は、やる気を取り戻し、猛烈な勉強をはじめます。
一年の遅れを取り戻すために、再び足をあげ、腕を大きく振り、ダッシュをかけて、走りはじめたのです。
(大丈夫だ。このペースなら行ける)
少しスピードをあげただけで、前を走っているランナーをやすやすと追い抜くことができることを確信した時、修治にようやく余裕が生まれました。
それが文学でした。中学二年の終わりに、校友会誌に創作『最後の太閣』を発表、三年になると、今度は仲間うちで『蜃気楼』という同人誌を発行、自らも「辻島衆二」というペンネームで力作を発表したのです。
ふだんは級長、それもつねにトップクラスの成績。それでいながら、小説も書く。余裕綽々の修治少年。そして入学した年の五月、修治はかねてから尊敬していた当時の大作家芥川龍之介の講演を聞き、大変に興奮したようでございます。
(芥川はずっと先を走っているけど、いつか追いつくぞ)
そう思って、またスピードを一段とあげようとした矢先のこと。この芥川が二カ月後に自殺したのです。
修治は驚きました。
(なぜだ! なぜなんだ?)
修治は狼狽しました。頭が混乱してきました。いままで、自分が人生というレースで考えてもみない展開になったからです。
自殺、自分で自分の命を絶つ。
(自分で? 自分の?)

神も照覧、私は精一杯に努めてきたのだ。
動けなくなるまで走ってきたのだ。
(走れメロス)

ここまで順調に走ってきた修治は、この一瞬に立ち止まってしまったのです。修治の傍らを不思議そうな顔をしながら、次々とランナーが追い越していく。
そうか、走ることを自分でやめることができるのか――――。
修治はただ茫然と、その場に立ち尽くすのでございました。

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