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【特集】宮澤賢治

その作品の多くが、没後に有名になったという、宮澤賢治。その短くも濃密な生涯を特集します。豊富な写真とともに、自筆の『雨ニモマケズ』原稿も掲載。必見です。

文・小田豊二

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困ったなあ、日が出ないかなあ
もうちょっと暑くならないかなあ
寒かったり、雨ばかり続く夏の日
あなたは、
いつも空を見上げていた
そして、疲れた身体にムチうって
どうしたら人が幸せになるか
それだけを考えていた――
宮澤賢治さん
あなたにあげたかった
雨にも風にも負けない丈夫な身体を…

賢治誕生

三陸大津波、大雨、大洪水、そして赤痢大流行……悪夢のような明治二十九年、ひとりの子供が念仏の中、産声をあげた。父二十二歳、母二十歳。岩手花巻、質・古着商「宮澤商会」の跡取り息子の誕生だった―――

もしあなたの子が男の子で、人の痛みのよくわかる、いじらしいほどやさしい子供だったら、あなたは、その子の将来を楽しみにしますか。それとも、この正義や誠実が無視される世の中、たくましく生きられるかどうか、心配しますか。
「雨ニモマケズ 風ニモマケズ」の詩で有名な宮澤賢治の人生は、まさにそんな心やさしい子供が短い一生を、やさしい心のまま、人のために生き抜いた記録でした。
その足跡をここで賢治に負けないやさしいまなざして辿ってみることにします。
賢治は明治二十九(1896)年八月、岩手県の花巻川口町(現・花巻市豊沢町)に父政次郎まさじろう(二十二歳)、母イチ(二十歳)の長男として生まれました。

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母、宮澤イチ。           賢治の父、宮澤政次郎。
明10・1・5生。昭和38・6・30没。    明7・2・23生。昭和32・3・1没。

宮澤家は、代々花巻で呉服商を営んでいる商人の家系で、祖父の代からは質屋と古着商で生計を立てていました。貧しい農家の多い当時の花巻では、宮澤家はまずまず恵まれた暮らしをしていたといっていいでしょう。
父の政次郎は真面目な人で、商売の方も堅実にこなしていました。また、仕事だけでなく大変な読書好きであり、とても信心深い人で、地元に花巻仏教会という集まりを作ったり、仏教を通して多くの地元の人々のために尽くした人だったのです。
また母のイチは、政次郎に劣らない、いや、それ以上に慈悲深い女性で、気の毒な人をみれば、わがことのように心配し、いたれりつくせり、まさに慈母のような存在でありました。
この父と母の間に生まれ、大事に育てられたのですから、賢治が心やさしいのは当然のことかもしれません。
ある日のこと、賢治が友だちと道路でバッタ(メンコ)をしている時、その一枚が跳びはね、それを追いかけた友だちが運悪く走ってきた荷馬車に手を轢かれてしまいました。
手から血がポタポタ流れているのを見た賢治は夢中になって駆け寄り、友だちの血だらけの指を口にくわえ、「いたかべ、いたかべ」といいながら、その血を吸ったのです。そして、それまで勝っていたバッタをすべてその友だちにあげたといいます。

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賢治5歳の時の写真。左は妹とし子(3歳)。この年妹シゲが誕生。

また、こんなエピソードも残っています。
賢治は飼っていた虫が死んでしまうと、必ず土に埋め、妹のとし子と一緒にお経をあげたそうです。
「虫だって人と同じように命があるんだ。死んでしまうなら、虫など飼うんじゃなかった」
そういいながら、他に飼っていた虫をすべて逃がしている子供時代の賢治を想像しただけでも、賢治の心根が見えてくるようではありませんか。
自分のことより、相手のことをまず考える――。子供の頃から、そんな心が知らず知らずに、賢治の全身に培われていたといっていいでしょう。
明治四十二(1909)年、花巻の花城尋常高等小学校を卒業した賢治は、盛岡市にある県立盛岡中学校に入学しました。
盛岡中学といえば、県下一の名門。将来軍人や政治家になろうとする優秀な生徒が集まる学校です。そう、あの石川啄木も、盛岡中学の出身です。
行儀よく、おとなしい少年。ここでも賢治は真面目です。寄宿舎に入っても、先輩や先生のいうことを嫌な顔ひとつせずやったばかりか、むしろ人の嫌がることをすすんでやるような生徒でした。
普通、この年になると、自分の将来を考えます。しかし、賢治はまったく出世のことなど頭にありませんでした。人はなぜ、出世しようとしたり、えらくなろうとしたりするのだろうか……そんなことばかり考えている賢治を、上級生たちが変人扱いしたのもわかるような気がします。
この当時の賢治のあだ名は「石コ賢さ」。山が好きで、暇があれば岩手山に登り、石を拾っては持ちかえります。また、石ばかりでなく、植物や小鳥にも親しみ、山の中でじっと時が流れていくのを楽しんでいるようでした。

いただきの焼け石を這う雲ありて
われらいま立つ西火口原

当時、賢治が詠んだ短歌です。ここにいれば、嫌なことも、つらいこともすべて忘れることができるという賢治の気持ちが如実に現れているようです。
え、学校の成績ですか?
勉強の方はあまり進まなかったようです。国語や作文は、さすがによい成績でしたが、数学や体操となると落第点すれすれでした。当時の記録によりますと、盛岡中学五年生の時は、学年で八十八人中六十番だったようです。
クラスの中でも目立たない、先生のいいつけはきちんと守る物静かで真面目な少年――それが賢治でした。
だからといって、別に家族はそれほど心配していませんでした。なぜなら、賢治は将来父のあとを継いで宮澤商会を切り盛りすることが決まっていましたから。賢治がどう思っていたのかを別にして……。

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