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【特集】宮澤賢治

その作品の多くが、没後に有名になったという、宮澤賢治。その短くも濃密な生涯を特集します。豊富な写真とともに、自筆の『雨ニモマケズ』原稿も掲載。必見です。

羅須地人協会時代

黄色い農民服にツバの広い麦わら帽、それが賢治のトレードマーク。疲れた身体にムチうって、畑にトマトや花を植え、みずから町に売りに行く。大雨の中、東奔西走した賢治はついに床に。昭和三年、ひでりの夏のことだった。

大正十五(1926)年、賢治は四年にわたる花巻農学校教師生活に別れを告げました。誰が考えても賢治にとって、あれだけ天職だと思われた教師生活をなぜ辞めたのでしょうか。それは、また賢治らしい理由からでした。
貧しい農民たちや子供のためだといいながら、僕は自分の名前を売るような詩や芸術でごまかしている。もっと土にまみれて働きたい。そして、本当の農民の苦しみを一緒に味わい、彼らを救いたいのです。
賢治がそういった時、父政次郎はすでに叱る元気もなかったといいます。
「もうお前も三十だ。自分のことは自分で決めろ」
賢治は北上川西岸の林に囲まれた丘の上にあった家を父から譲り受けました。早速家のまわりに畑をつくります。朝は暗いうちに起き、夜遅くまで土まみれになって働きはじめたのです。
食事は玄米と味噌汁そして少々の野菜。井戸の水で体を洗い、頭は坊主。まるで原始人のような生活が続きます。近くの子供に童話を聞かせたり、農学校の教え子を集めては、音楽会を開いたりしたのです。
しばらくして、賢治はひとつの会を作ることにしました。これは農民たちを集めて科学知識を教えたり、文学や音楽のことを話し合う集いでした。これによって、ただ日照りや旱魃に泣くだけでない、農民たちは自分たちの手で理想の農村生活を送ろう、そのためにはもっともっと勉強をしようというものでした。
その会の名前は「羅(ら)須(す)地人協会」。
「羅須」というのは、意味がないと賢治はいいます。セメントと網を結合するラス網の意味ではないか。ラテン語から出た「赤色」の意味で、植物の和名としてウルシの類ではないか。アイス語で松のことをラスというから、そこから来たのではないか。諸説ありますが、いまだに定説はありません。

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普通、会を作りますと会則などがあったり会員になると会費を集めたりしますが、まったくそんなこともありません。
賢治が考えた農業科学や、芸術を講義する塾のような所であり、各自の製作品や種苗を交換するところは組合のようでした。
賢治は、集まってきた二十人の会員のために、必死でテキストを作りました。「肥培原理習得上必須ナ物質ノ名称」「植物ノ生育ニ直接必要ナ因子」「土壌要務一覧」といった手作りの教科書でした。
大きな火鉢のまわりに集まって聞き入る農民の姿を見た賢治は、どれだけ幸せな気持ちになったことか、想像がつきます。
集まった人たちは、丸い椅子に腰かけ、椅子の足りない時はミカン箱に座りました。おなかがすいてくると、近くて赤くなっているトマトを切って、みんなで分けたり、冷たいごはんに醬油をかけて、サラサラと食べたりしたようです。
近所の篤農家や農学校の教え子たちが、賢治に負担をかけまいと木炭を担ぎ、餅を背負って雪道をやってきました。賢治は、そんな人たちにリンゴを与え、オルガンを弾きました。
「世界が全体幸福にならないうちは、個人の幸福はありえない」
この時の賢治は自分の考えにさらに自信を深めたのでした。
ただ、父親の政次郎は、そんな賢治が心配でなりません。
自宅からわずか二キロしか離れていないこともあって、賢治の家に食べ物を運ばせたり、賢治が上京してエスペラント語の勉強する時のお金を出してあげたりしています。賢治がどんなに農民のために尽くしていても、それを支えるのには、やはりお金が必要だったのです。
父の心配したように、賢治の理想は大きすぎたようです。賢治の激しい情熱だけが空回りしたのか、この運動もわずか二年後の昭和二(1927)年に終わりを告げました。
しかし、賢治はそんなことであきらめません。集まってこないのなら、みずから出かけて行き、講演会を開き、農業科学を教えようとしました。そんな無理が長く続くわけはありません。
昭和三(1928)年の夏、ひどい夕立のなかで働き続けたのが原因で、風邪をひき、高熱で倒れてしまったのです。父は賢治を家に連れて帰りました。もう、我慢がならなかったのです。
「もういい、賢治はやることをやったじゃないか」
父政次郎の気持ちは、まさにそんな親心だったにちがいありません。

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