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【生誕160周年&没後100年】文豪・森鴎外の生涯をたどる

2022年に生誕160年・没後100年を迎える文豪、森鴎外。『舞姫』や『高瀬舟』の著者としてその名前は知っていても、森鴎外の人物像はよく知らないという方も少なくないはずです。森鴎外の家族や知人たちの手記を元に、鴎外の作家としての生涯をたどりました。

森鴎外の名前を聞くと、『舞姫』や『高瀬舟』といった傑作小説を残した大文豪──というイメージが最初に思い浮かぶ方が、ほとんどではないでしょうか。しかし、鴎外は小説家であったと同時に優れた翻訳家・評論家でもあり、明治期には軍医のトップに就任したこともある、非常に多才な人物でした。

2022年は、森鴎外の生誕160年・没後100年にあたる年です。いま、あらためて鴎外がどのような人物であったかを知りたい方に向け、その生涯や交友関係、家族が語るエピソードなどを詳しく紹介します。

【鴎外の生涯:その1】「神童」と呼ばれた子ども時代~文筆活動の開始

鴎外が石見国津和野藩(現・島根県津和野町)の森家の長男として生まれたのは、1862年2月17日のこと。「鴎外」はのちに自分で付けた筆名で、本名は林太郎と言います。森家は代々、藩主・亀井茲監これみの侍医として仕えてきた家系で、林太郎もすでにこのときから、将来は医師になることを森家の人々に期待されていました。

幼い頃の林太郎は、6歳で『論語』、7歳にして『孟子』を学ぶなど、家族や藩校の教師からは「神童」と呼ばれていたほど聡明な子どもでした。10歳のとき、廃藩置県の影響で通っていた藩校が廃校になったことなどをきっかけに、林太郎は家族とともに上京します。

林太郎は1873年、東京医学校の予科に、実年齢よりも2つ多く年齢を偽って入学します。彼が非常に優秀だったことに加え、医学校に入れば寄宿舎の料金や書物代が無料になるため、家族が入学を急がせたのです。

基礎的な学問に加え、ドイツ語やオランダ語も身につけていた林太郎は、校内でも優等生としてその名を馳せました。しかし、医学校の最高学年となった1881年、下宿の火事によって授業ノートを焼失してしまったり、肋膜炎を患うといった不運が重なり、卒業試験に失敗。当時、成績優秀者は文部省の派遣留学生になることができましたが、その夢は一度破れてしまいます。林太郎はドイツ留学をしたいという希望を胸に抱きながらも、浪人生としてしばらく父の病院を手伝う日々を過ごします。

同年の秋、官費留学は難しいと医学部長に直接諭された林太郎は留学をようやく諦め、陸軍省に入省。東京陸軍病院で、陸軍軍医副として勤務することになります。林太郎は入省からわずか半年ほどで頭角を現し、軍医本部付となって、プロイセン国の陸軍衛生制度に関する調査を命じられます。林太郎はそこでドイツの衛生書の大著を陸軍向けに編述するという大仕事を成し遂げ、その本を教科書として、軍医向けの衛生学の講義を持つようになりました。そして1884年、衛生学を修めることを目的に、念願だったドイツ留学を命じられます。

林太郎はドイツで、細菌学の第一人者であるコッホの衛生試験所に勤めながら、細菌学や衛生学を学びました。4年の留学を経て帰国した林太郎は軍陣衛生学の牽引者として活躍するとともに、権威ある週刊医学雑誌、『東京医事新誌』の編集長というポストを得ます。さらには、ドイツ帰りで語学が達者であったことを買われ、『読売新聞』上で翻訳小説の連載を依頼されるなど、文学界においてもじわじわと存在感を高めていきました。

【鴎外の生涯:その2】文豪「森鴎外」の誕生~晩年

この頃から、林太郎は「鴎外」のペンネームを用いるようになります。総合雑誌『国民之友』の主筆・徳富蘇峰は、鴎外の翻訳小説や翻訳戯曲を新聞上で目にし、大いに評価しました。蘇峰に訳詩を依頼された鴎外は、1889年に『国民之友』夏季文芸付録として翻訳詩集『於母おもかげを発表。この詩集は爆発的人気を博します。雑誌に重版がかかるばかりか単行本化も進み、鴎外は一躍、人気作家の仲間入りを果たしたのでした。そして『於母影』の印税を用い、鴎外は友人たちとともに文学評論誌『しがらみ草紙』を創刊します。鴎外はこの誌上で小説家・坪内逍遥を痛烈に批判するなど、戦闘的とも言える評論活動を展開しました。文学は主観的なものを描くべきだという理想主義を掲げていた鴎外は、坪内逍遥らの掲げる写実主義に強く反発したのです。

1890年からは蘇峰の依頼により、ドイツ留学の経験をもとにした小説三部作『舞姫』『うたかたの記』『文づかひ』を立て続けに発表し、文壇で確固たる地位を得ます。日清戦争従軍後の1896年には、戦時の影響で廃刊となってしまった『しがらみ草紙』の後身にあたる文芸評論誌『めさまし草』を創刊し、幸田露伴や斎藤緑雨らとともに当時の論壇の先頭に立ちました。1902年には、評論家・詩人である上田びんの主宰する文芸誌『芸苑』と『めさまし草』とを合併した雑誌『芸文』も創刊しています。

日露戦争への従軍を経た1907年には、陸軍省医務局長(軍医総監)への就任を果たし、順風満帆なエリート街道を進みます。1909年には自身の性的体験について大胆に綴った『ヰタ・セクスアリス』が問題視され、発禁処分となる憂き目に遭いますが、批判を意に介さず、公務の傍らで旺盛な執筆活動を続けました。

晩年にあたる1915年頃からは、歴史小説・史伝小説に注力するようになり、『阿部一族』『渋江抽斎』といった作品を手がけます。1918年には帝国美術院(現・日本芸術院)の初代院長に就任するなど、その活躍の場は留まるところを知りませんでしたが、1922年、肺結核のために60歳で永眠しました。

医学者・文人としての鴎外──論争の絶えない人物

鴎外は、医学の分野においても文学においても、論争を好む人物だったと言えます。特にそれが顕著に表れているのが、1889年頃に盛んにおこなっていた医学界批判です。

『東京医事新誌』の主筆として活動していた鴎外は、同年に衛生学の雑誌『衛生新誌』を創刊。双方の誌上で、「戦闘的啓蒙運動」と称される医事評論を展開し、医学界の権威たちに反旗を翻しました。『東京医事新誌』では、経済力のある医学界の重鎮たちが集まる団体「乙酉会いつゆうかい」を批判し、「日本医学会の活動は医老の排斥が必要だ」と訴えましたが、程なくして編集長を解任されてしまうと、続いて『衛生新誌』内での批判を重ねました。

鴎外の主張は、「医学会では学問上の業績を成した学者が冷遇されており、欧米と交流できる人材こそ真に尊重すべきだ」というもの。しかし、そのような主張に基づいて日本医学会を批判していた最中、まさに学問のエリート中のエリートである北里柴三郎が第2回の日本医学会会頭に就任したという報を受け、鴎外は愕然とします。鴎外は、北里に対し

“反動の波間に漂う北里は学者たる価値を失い偽学者に落魄し、御神輿おみこしとなっている”

と、難癖ともとれる痛烈な批判を続けますが、新興の医事評論誌である『医海時報』から、「鴎外の主張は過剰な自信とエリート意識にまみれている」と冷たく反撃されてしまいます。鴎外は結局、医学界に敬遠されながらも、新聞記者などを相手に6年近くこの論争を続けました。

妻、娘、息子たち──家族から見た鴎外

そのような“論争癖”はあったものの、鴎外は基本的に社交的で、声を荒らげたりすることのない穏やかな人物だった、とさまざまな文人や友人たちがのちに語っています。特に家族の前では、鴎外はすばらしい父親であったようです。

鴎外には、最初の妻・登志子との間に長男・於菟おと、そして再婚相手の志げとの間に長女・茉莉、次女・あんという3人の子どもがいました。子どもたちはそれぞれ、鴎外との思い出を懐かしく回想する手記や随筆を残しています。

於菟は、随筆『父親としての森鴎外』の中で、自身に対する鴎外の愛情を、このように振り返っています。

“私は初めて食べた支那料理の美味しかった事、小皿に盛ったのが幾種類ともなく出てくるのに驚嘆した記憶が後まで残っている。(中略)
こういう時の父はことに物静かである。少しばかりの酒をゆっくりのむ。美しい女中を一人私につけて食べこぼしの世話をさせる。そして黙ってにこやかに私を見ている。多分父の眼は早く母に分れさせた子を静かな父の愛の眼で見つめていたのであろう。”

また、自分の知識の及ばない分野では、相手が年下や立場の低い者であろうと、素直に教えを乞うことができる性格だったとも於菟は評しています。

“詩では古くは野口寧斎ねいさい等、後には桂五十郎、和歌で落合直文、井上通泰みちやす、大口鯛二、佐佐木信綱、与謝野ひろし、同晶子、俳句で正岡子規、高浜虚子、また漢学で吉田増蔵等に交わり、時にはその教を求めもした。知らない事を人に尋ねるといえば叔父や私にさえそうであった。(中略)後年博物館総長になって生物学方面の顧問を詮衡する時にも、これは少しまじめに私の意見をも求めた。そして私などが依頼で何か調べてゆくと「どうも有難う。」と一々挨拶した。”

出世に貪欲でエリート意識の強い人物だったと言われることもある鴎外ですが、几帳面で礼を欠かさない点は、多くの家族や友人たちに愛されていたようです。

葉巻と「饅頭茶漬」に目がなかった鴎外

酒を嫌い、祝いの場以外ではほとんど飲むことのなかった鴎外ですが、嗜好品の中では葉巻を愛していました。於菟は、『父親としての森鴎外』の中で“父を思い出すごとに葉巻の香を今でも感じる”と述べています。鴎外の子どもたちは皆、鴎外の吸う甘い葉巻の香りが好きだったようで、鴎外が立ち去ったあとのトイレさえもいい香りがするので人気だった、と振り返っています。

また、鴎外は酒を飲まない代わりに、大の甘いもの好きという一面を持っていました。のちに小説家・随筆家として活躍した娘の茉莉は、鴎外の好物としてよく知られている“饅頭茶漬”なる食べ物について、随筆『父の帽子』の中でこのように語っています。

“私の父親は変った舌を持っていたようで、誰がきいても驚くようなものをおかずにして御飯をたべた。どこかで葬式があると昔はものすごく大きな饅頭が来た。(中略)その饅頭を父は象牙色で爪の白い、綺麗な掌で二つに割り、それを又四つ位に割って御飯の上にのせ、煎茶をかけて美味しそうにたべた。饅頭の茶漬の時には煎茶を母に注文した。子供たちは争って父にならって、同じようにしてたべた。薄紫色の品のいい甘みの餡と、においのいい青い茶とが溶け合う中の、一等米の白い飯はさらさらとして、美味しかった。これを読む人はそれは子供の味覚であって、父親の舌はどうかしている、と思うだろうが、私は今でもその渋くいきな甘みを好きなのである。”

鴎外は、饅頭のような食べ物や、甘く煮た果物を特に愛したと言います。これは、鴎外が衛生学の研究をしていたことに大いに関係があります。鴎外は衛生学を学んだことで、生水や生の食べ物から細菌に感染することを強く恐れるようになり、極度とも言えるほどの潔癖症だったのです。鴎外は子どもたちに生の果物や氷水を口にすることを禁じていたため、のちに親戚の家で初めて生の桃を食べた茉莉は、こんなに美味しい食べ物がこの世にあったのかと驚いた、と述懐しています。

鴎外は何にしても“一流”を好む人だったようで、子どもたちを精養軒や資生堂といった人気レストランに連れて行くことも少なくありませんでした。しかし、そこでも鴎外は常に「ドロドロしたものは食うな」と子どもたちに言いつけており、淡白なもの、清潔なものばかりを喜んで口にしたそうです。

おわりに

森鴎外という人物を、その生涯や交友関係、嗜好品から紐解こうとしてみると、論争好きでありながら身近な人からの評判は穏やか、一流品を好みながらも一番の好物は“饅頭茶漬”──といった、二面性のある人物像が見えてくるようです。於菟はそんな父親の性質について、“一流なら一流、ご馳走ならご馳走が好きで、いい加減なものを何よりも嫌った”と分析しています。

“父は芸術でも科学でも偽のものがきらいである。偽でなくともいい加減のものがきらいである。私が小学や中学では作文を得意としたもので少し何か書きたい年頃になって、その頃愛読した藤村を真似たような新体詩を数篇かいたり、生意気に独逸語の詩を作ったりして父に示した。父は親切に主筆を入れてその中で新体詩一つだけまずよろしいといった。しかしその時「物を書くというには何でもその人で無ければ書けないというものでなくては価値が無い。」といった。”

これを読むと、一見矛盾しているような鴎外の性格や嗜好も、非常に一貫したものであるように思えてきます。どこまでも真面目で几帳面、“いい加減”を許すことのなかった鴎外という人物を知った上でその小説や翻訳作品を読んでみると、作品の世界がさらに奥深く感じられるかもしれません。

※参考文献
・森於菟『父親としての森鴎外』
・小金井喜美子『鴎外の思い出』
・森茉莉『父の帽子』
・海堂尊『森鴎外』
・嵐山光三郎『文人悪食』

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