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中上健次、芥川賞受賞作『岬』誕生秘話

多くのクリエーターに多大な影響を与えた、”伝説の作家・中上健次“。そんな中上に縁のある人々が、電子全集発刊に寄せて、中上との思い出、エピソード、また中上文学への思い等を語っていきます。
第1回は、元文藝春秋の編集者として、第74回芥川賞受賞作『岬』を担当した高橋一清氏が、中上との思い出を熱く語ります。

戦後生まれ初の芥川賞作家であり、昭和という時代を疾走し、46歳の若さで夭折した作家・中上健次。2016年は中上健次の生誕70年にあたり、記念事業として「中上健次電子全集」が、4月15日より配信開始されました。

多くのクリエーターに多大な影響を与えた”伝説の作家“中上健次に縁のある人々が、電子全集発刊に寄せて、中上との思い出、エピソード、また中上文学への思い等を語っていきます。

第1回は、元文藝春秋の編集者として、第74回芥川賞受賞作『岬』を担当した高橋一清氏が、中上との思い出を熱く語ります。

※6-3 1975 紀州にて。文春撮影。1975年『岬』発表直後、熊野木本にて。(撮影=高橋一清 写真提供=文藝春秋)

 

エッセイ 担当編集者だけが知っている中上健次 第1回

「中上健次  兄弟のように」 高橋一清

中上健次さんと初めて会ったのは、私が文藝春秋に入社した昭和42(1967)年の秋であった。所属する文藝誌「文學界」編集部で、翌年一月号から詩の欄を設ける企画が通り、執筆の依頼であった。投稿誌の「文藝首都」に発表する中上さんの詩やエッセイに、粗削りながら、若者らしい力と新しさを感じていたからである。

会いたいと書いた私のはがきを握りしめ、中上さんは受付にあらわれた。中上さんにとって、出版社を訪ねるのも編集者に会うのも、初めてであった。私は中上さんを作家と面談するサロンに、ためらわず通した。

袖口のほころびたセーター姿の若者を、サロンに入れたことは、問題になった。上司から、サロンは若者のたまり場ではないとの注意である。私は、詩を依頼したことを告げ、このとき初めて上司に言い返した。

「中上さんは、必ず大物になります。十年後、二十年後を見ててください」

一行の文章も手にしていないのだが、私は感じたままを言葉にした。言ったからには、そうしてみせる、と心に決めたのだった。

中上さんは、予備校生と言ったが、その頃は、学校に行かず、「フーテン」をしていた。後に、「一清さんが声をかけてくれなかったら、あの連続殺人事件を犯した永山則夫のようになっていた」ともらしたことがある。境遇が似ているとも言っていた。二人は、新宿の同じ喫茶店でたむろしていたのだった。

中上さんに掲載号を渡すときのことだ。「これからどうする?」「小説を書きたい」「読むから書いたら持ってきて」。そのようなやり取りをした。私は社の人事異動により、「文藝春秋」や「週刊文春」の編集部に移ったが、中上さんが持ち込む原稿を読み続けた。

「この世界は公平、作品がすべて」と言ったときから、中上さんは一層深く私を慕うようになった。三つ違いの兄弟のようだった。この頃に読み、注文を受け入れてくれた作品に、後に「早稲田文学」に載った『灰色のコカコーラ』もあった。また、昭和45(1970)年7月には、かすみさんとの結婚披露宴にも招かれた。

※6-2 1975 紀州にて。文春 高橋一清撮影

1975年『岬』発表直後、新宮丹鶴城公園にて。(撮影=高橋一清 写真提供=文藝春秋)

六年ぶりに、私は「文學界」編集部に戻った。中上さんは「文藝」に発表した『十九歳の地図』が芥川賞の候補作品になり、「季刊藝術」や「すばる」からも注文を受ける注目の作家になっていた。私は、魚河岸でフォークリフトの運転手をつとめる中上さんを新宿の喫茶店で待った。私はその日、「思い切ったことをしてみませんか」と言った。

一年待った。昭和50(1975)年7月7日の夕方、新宿駅ビル内の喫茶店「プチモンド」で、『岬』を受け取った。中上さんは作品の仕上げに体力を消耗させ、痩せて別人のようだった。

翌八日、立花隆さんが「田中角栄研究」を書いた部屋が空いているのを幸い、朝から籠って『岬』を読み始めた。梅雨の蒸し暑い日であったが、読むうちに冷たいものが背を流れ、鳥肌が立った。「すごい! これはいける」と幾度も呟いた。壁に貼られた田中角栄の人間関係図と同様に、手もとの『岬』の登場人物関係図には、何本もの線が交錯していた。

次の日、三鷹駅前の喫茶店「第九」で会い、感想を伝え、作品への手入れを頼んだ。その中で、最も大きな直しは、主人公秋幸と妹と思える女性との性交の場面である。時間の流れに沿って描かれていたものを、時を反転させて、再度体を重ねる情景から書き始めるように提案した。そして、生硬い表現、重複する文章を指摘して、二百枚近い作品を百七十枚までに縮め、全文を書き改めるよう求めた。

一週間後、『岬』の第二稿を手にした。急ぎ印刷所に運んだ。中二日して組みあがると、校正者に回さず、ゲラは私自身が朱を入れ、気付いた個所を控えゲラに書き入れ中上さんに渡した。中上さんは直ちに手入れする。私はそれを本ゲラに書き取り、印刷所に回す。これを、三度、四度と繰り返した。

この作業で、秋幸が血族のしがらみから心を解き放たれるとき、路地に立つ一本の樹を描写すること。しかも根元から視線をあげて、枝葉から空へと放つこと。駅裏に住む姉の感情が昂ぶり、取り乱す情景には、機関車の地響きや轟音を効果として使うこと。そして、これは芥川賞選考会で、吉行淳之介さんと安岡章太郎さんの評価が分かれたところだが、岬の突端を男根の形に描写し、海に突き刺すように提案したのだった。これを若者らしくていいというのが吉行さん。あざといというのが安岡さんだった。

『岬』は、九回の手入れがなされ、今日の姿になっている。この作品で、中上さんに芥川賞を獲らせたかった。私は知る限りの小説の方法を中上さんに示した。

『岬』は昭和50年10月号「文學界」に載り、翌年一月に行われた第七十四回芥川賞選考会で、受賞が決まった。その夜、新橋の第一ホテルの記者会見場に現れた中上さんは泥酔していたが、私の姿を見つけると駆け寄ってきた。私の胸に顔を当て、ひとしきり泣きじゃくった後、小さな声で、「一清さんが、初めて俺を人間あつかいしてくれた」と言った。

中上さんは昭和文学の幕引きをし、平成の文学を開いた。編集者として、私は中上さんとの将来の夢をえがいた。ほぼ十年ごとに仕事をした。『岬』を書いていただいたのは、出会いから八年後、その十年後に『火まつり』、そして『讃歌』。次の十年後を楽しみにしていたのだが、癌を患い、見果てぬ夢となった。

平成4(1992)年3月3日。東京信濃町の慶応病院に中上さんを見舞った。この日こそ、中上さんが生涯で最も好きだった兄が、庭の木に綱をかけ、首をつった日なのだ。死の理由を究め、生と死を思う、これが作家中上健次の原点である。

この日が、中上さんとの別れとなった。五ヶ月後の8月12日、中上さんは故郷の紀州で四十六歳で命を閉じた。当時、私は「別册文藝春秋」の編集をしていた。親しい水上勉さんが綴った追悼文を誌上に掲げ、それに添え、中上さんが中学生のとき校友会の会報に書いた『帽子』という作品を載せた。

見本誌が執筆者や文壇関係者に届けられた日、安岡さんから電話が入った。

「いま『帽子』を読んだよ。いいものを載せたなあ」と言った後、「中上のことでは、いろいろ言ったけど、やはり才能があったんだ」

私は「そうでしょ」と答えてから、安岡さんと中上健次を語り合ったのだった。

 

高橋 一清

Kazukiyo Takahashi

1944年生まれ。早稲田大学第一文学部卒業後、1967年、文藝春秋に入社。「文學界」「別册文藝春秋」「文藝春秋」「週刊文春」「オール讀物」の各編集部、また出版部部員を経て、「別册文藝春秋」編集長、「文春文庫」部長、「私たちが生きた20世紀」特別編集長、「文藝春秋臨時増刊」特別版編集長を平成17(2005)年3月まで務める。その間、日本文学振興会理事、事務局長として芥川賞、直木賞などの運営にあたる。同17年の4月より松江観光協会に観光文化プロデューサーとして赴任。文化観光による松江の魅力を国の内外に発信している。著書に『編集者魂』『作家魂に触れた』『百册百話』『芥川賞・直木賞をとる! あなたも作家になれる』等。松江市在住。

 

中上健次電子全集 第1回 「紀州熊野サーガ1 竹原秋幸三部作」は、中上健次の代表作『岬』『枯木灘』『地の果て 至上の時』が初めて1巻に収録された贅沢な巻となっています。

中上健次の貴重なスナップ写真や、生原稿等の資料は勿論、「紀州熊野サーガ」作品群を読み進めるのに参考となる「作中登場人物家系図」といった特別付録に加え、長女・中上紀氏が寄稿した回想録「家族の道端」第1回も収録され、中上文学ファン垂涎の構成となっております。

http://www.shogakukan.co.jp/books/09d03181

中上

 

 

 

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