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中上健次『日輪の翼』誕生までの“合宿”の日々

「担当編集者だけが知っている中上健次」の3回目。当時、雑誌「新潮」で中上健次を担当していた元新潮社の鈴木力氏が、『日輪の翼』誕生までの秘話を語ります。

ひとつの作品が世に誕生するまでには、作家と担当編集者との様々なやりとり、葛藤が生じます。
『日輪の翼』が雑誌「新潮」に初登場したのは、1984年1月。竹原秋幸三部作の『地の果て 至上の時』が前年4月に発表され、中上作品の主要舞台となる「路地」が区画整理で取り壊され、“「路地」からの脱出”という新展開の中から生まれたのが『日輪の翼』でした。

当時、多くの文芸誌に連載を続け、超多忙だった中上に、長編一挙連載プランと執筆に集中するための合宿を提案したのが新潮社でした。

今回、「担当編集者だけが知っている中上健次(3)」では、当時、雑誌「新潮」で中上健次を担当していた元新潮社の鈴木力氏が、『日輪の翼』誕生までの秘話を語ります。

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P1紀州の喫茶店にて
紀州の喫茶店にて打ち合わせ中の中上(1980年頃。撮影日不明)(撮影:鈴木力)

担当編集者だけが知っている中上健次 (3)

中上健次は「遅筆」だったか?
鈴木 力

僕は昭和51年に新潮社に入社してすぐに文芸誌の「新潮」に配属されました。中上健次さんに初めてお会いしたのは、大先輩の坂本忠雄さんに連れていってもらった、西新宿の「茉莉花まつりか」というバーです。バーといっても地下にある店は広く、早い時間にはガランとしていましたが、それでも誰かしら作家や編集者が飲んでいて、夜が更けるにつれ店は一杯になり、あちこちで議論や歌が始まる老舗の文壇バーでした。その日、作家たちの中には団塊と言われた世代の若い書き手たちも何人かいて、群像の橋中さん、文藝の寺田さん等他誌の編集長も集まり、テーブルをつなげ長い車座になって語り合っていると、中上さんが現れました。とりあえず空いていた僕の隣に腰を下ろしたのですが、それだけで物凄いオーラが漂い、同世代の書き手のみならず年長の常連客の中でも圧倒的な存在感でした。彼はすぐに座の中心となり、奥の席へ移っていったので、ひと言かわすこともできずにこちらはただ薄い水割りをあおっているだけでした。

その後、坂本さんの使い役で国立に原稿取りに伺ったのが、仕事上での最初の出会いになります。国立駅北口の喫茶店に約束の時間に行くと、広い店内の中でもすぐにそれと分かる巨漢の中上さんがいらして、普段からそこを書斎のように使っているのか、テーブルの上には原稿用紙が散らばっていました。そしてそれとは別の、すでに書き終えられた原稿をこちらに渡してくれました。タイトルは「三月」。こちらもコーヒーを頼み、別の原稿を推敲している中上さんの目の前で読み始めました。文章は平易なのですが家族同士の関係が分かりづらく、こっそり冒頭から読み返したりしながら、格闘するような気分で読み進めていくうち、次第に小説に惹き込まれていきました。そして沸き上がってきたのは、「この人は優しい人だな。」という胸が熱くなるような思いでした。しかしもちろんそのような感想を吐けばこちらがどの程度の人間にみられるか、くらいの頭はどうにか働き、結局は意味のないことを口ごもりながら、早々に編集部に戻りました。すぐに読んだ坂本さんが、「いい小説を書いたな。」と呟くのを聞いてほっとしたのを覚えています。

いま読み返すと、この短篇、とくに前半は、中上文学の根幹部分が絡まりあい、凝り固められたような一文一文がきしみあう、文芸誌の世界に足を踏み入れたばかりの若造が初見で読みこなせるようなものではなかったとつくづく思わされます。しかしそのとき、未熟な読み手にも響いた、長調と短調が同時に奏でられているかのような調べは、還暦を過ぎたいま読んでいてもはっきり聴こえてきます。音楽の比喩を続ければ、この作品の後半、兄の死が語られる件の優しい響きは、万人の胸を震わせまた読むほどに尽きせぬ思いを募らせるモーツァルトの楽曲を思わされます。

さて、作家と編集者の間には日常業務を仕切る〆切というものがあり、この「〆切」を巡って、両者の間にはあまたの悲喜こもごもの戦いが、おそらくは今も変わることなく続いていると思います。そのドラマを描いた本は、編集者側からのものだけを挙げても枚挙に暇ありませんが、そこで活躍するのは「遅筆」と言われた作家たちです。この点において中上健次はどんなタイプの作家だったか、今日はこの場を借りて、中上さんに語りかけるつもりで考えてみたいと思います。

僕が配属された頃、一人の文芸編集者が担当する作家の人数はざっと数十人、三桁を数える人もいたと思いますが、各々がいわゆる「遅筆」作家を抱えていました。そのほとんどの作家たちは、〆切の渦中にあって決して銀座や新宿の文壇バーで遊び歩いているわけでは(必ずしも)なく、机に向い呻吟しながらも遅々として筆が進まない、原稿の手離れが悪い、という方々でした。例えば、色川武大さん。

昭和60年代初頭、色川さんは四谷の大京町に住んでいました。小説の締め切りが過ぎ、明け方までに印刷所に半分でも入れておかなくては、というところまで来たある日、お宅にずっと詰めていたのですが、原稿はいっこうに進まず、夜中の2時ころになって、やっと3枚を渡してくれました。憔悴しきった表情で、こちらの励ましの言葉も何の力にもならず、編集部に戻ろうと靴を履いていると、「それ、持っていきますか。」とぽつんと仰る。「これをとにかく印刷所に入れて、明日ゲラを持ってきますから。」と答えると、「ちょっと手を入れたいところがある。そこを手入れして、朝までに10枚渡すというのでは遅いですか。」「遅いですか」と言われれば、そうに違いないのですが、そこで甘い心が出てしまった。10枚なら予定枚数の半分に近い。9時までに10枚入れられるならそのほうがいいか、と考えて、「じゃ、8時に来ますから。」とカバンの中から3枚を取り出し、手渡したとき、色川さんの顔に、ゆがんだ笑みがこぼれた。「あ。」と思ったがもう遅い。そのまますごすごと家に帰って一旦仮眠をとり、ラッシュの電車に乗り、再び大京町に向いました。迎えてくれた色川さんは、「いま渡します、そこで。」とソファを示し、書斎に戻りました。そのソファで10時過ぎまで待ったでしょうか。書斎から出てきた色川さんが、「これを。」と差し出した原稿は3枚。昨日(というか、数時間前に)読んだ3枚とまったく変わっていない(、と思えた)。読み終えて、「これは、、、」と、前に座った色川さんに顔を向けると、「変わってないです。あれからずっとその3枚を書きなおしてた。一字一句変わってないんだけど、なんども書き直してると、文章に照りが出てくるような気がして。」と仰る。これには二の句が継げない、というか、参りました。この人に付いていこう、とまで思うと同時に、編集部に戻ったら坂本さんになんと言おう、とアタマがクラクラして、とにかくその3枚を持って社に戻りました。その原稿は、結局、その日の夜には全部出来て、無事校了に間に合いました。「鳥」という作品です。

中上さんの場合はどうだったか。彼ももちろん実際に原稿を頂くまで長いやりとりを覚悟させられる作家の一人で、「遅筆」作家のイメージが強い方でしたが、色川さんとは違って、原稿を書くこと自体は決して遅い方ではなく、やりたいことをどんどん引き受けていく内に、それがやるべきタスクに変っていき、どうにもならなくなる、というタイプだったと思います。中上さん自身、「月に締め切りが六つあったらどれも守らなくてはいけないが、締め切りが二十あったらどうだ? どれも守らなくていいんだ。」と言っていましたが、たしかにある年の新年号では、文芸誌からの注文をすべて受けようと、「金曜日までに「新潮」と「群像」を同時に書く。そのあと「文藝」。「海」はそのあと」というスケジュールが作られました。「新潮」は朝と夜書く、というので、当時八王子にあった仕事場で数枚もらった原稿を抱え、午後イチで来る「群像」の編集者とかち合わないよう、町の喫茶店で清書をし、夕方また仕事場を訪ねて続きができるのを待ったこともあります。このとき頂いた作品は、連作『重力の都』のひとつ「よしや無頼」。他の雑誌に載ったものも『熊野集』や『千年の愉楽』などの連作で、いくつもの物語群が同時に進んでいたことがわかります。それに加えてこの月は対談と座談会もあり、よくぞ一つも落とさずに書けたものだと今更ながら感服させられます。

日輪の翼 書影

『日輪の翼』単行本初版書影

中上さんは「行方をくらましてしまう」タイプの作家としても名を馳せていて、約束した喫茶店に現れず、ゴールデン街の心あたりの店をしらみつぶしに探したこともしばしば。紀州の家に行っている、という情報を得て、早朝に飛行機で向かい、鍵の開いている家に入って、他社の編集者と一緒に海から戻ってきた氏を迎え、吃驚されたこともあります。

しかしそうした日々は、中上さんにとって、けっして本意なものではなかった、中上さんは本当は(原稿に集中する環境にさえいれば)原稿を書くのは早い作家だった、ということを、この場を借りて書いておきたいと思います。前述の短篇「三月」は約束の日にきっちり渡してくれました。そして、『日輪の翼』のときは、延べ二週間ほどの二度の「合宿」で、600枚を超える長編が完成したのです。この合宿のことは以前、インスクリプト社から刊行された中上健次集(八)の冊子に書かせていただきました。以下、それと記述や図版重複することをお許しください。
長編一挙掲載のプランは、中上さんとはデビュー以前からの付合いだった坂本忠雄さんが、長い時間をかけて語り合っていたものでした。その坂本さんに随いて東京だけでなく新宮やソウルにも行き、打合せに参加させてもらいながら、執筆の時期が熟したのが昭和58年。中上さんが手配してくれた滞在先で合宿をやろうということになり、11月8日の夕刻、編集部のアルバイト望月昭裕くんと僕は中上さんの運転するフォードマスタングに乗り、三人で新宿から八ヶ岳に向かいました。  暗闇の中着いたのは、瀟酒な無人の一軒家。(ここが柄谷行人さんの別荘であったことは、全く知らされていませんでした。)まずは買ってきた食材を広げ、深夜の酒宴となりました。  次の朝から、中上さんは書き始めました。執筆机の壁には各章の地名とサブタイトル、予定枚数を記した一覧表が貼られ、原稿用紙はあの集計用紙。集計用紙1枚に400字詰の原稿用紙7枚から8枚が入ります(。中上さんは、「30枚の短篇を書くときも、これなら3枚ちょっと書けばいいと思うとラクなんだ。」と仰っていました。)原稿はびっしりと文字で埋まっていて、読点や改行マークはほとんどなく、個別の改行の判断、また読点を入れていくのは、それを普通の原稿用紙に清書する担当者に任されていました。  望月くんが三食の調理を担当し、中上さんが書いた原稿をぼくが清書していく、という合宿が始まると、中上さんは食事のときも酒はいっさい飲まず、書き続けました。執筆の合間の息抜きは、高速道路をトレーラーで走り回る小説同様、車でした。
ある午後、小説の舞台となる諏訪湖を見にいこう、とドライブがてら足を伸ばすと、湖のあたりは観光客も少なく閑散としていて、白鳥の形をしたオモチャのような遊覧船が浮かんでいます。「これでは小説のヒントになるどころじゃないなあ。」とこちらはがっかりだったのですが、中上さんの中ではその「白鳥」が、章のサブタイトルになるほどに昇華していたのでした。
またある日、遅い夕食の後、中上さんが「コーヒー飲みに行こう。」といいます。「え、いまの時間じゃ、このあたりのペンションとかももう閉まってますよ。」と応えると、「高速のサービスエリアがあるだろう。」というのです。なるほど! というわけで、三人で外に出ると、満天の星空。車に乗り、中央高速を走り、双葉のサービスエリアでコーヒーを飲み、甲府昭和で一旦降りて戻ってまた書き続ける、という夜もありました。
この号(昭和59年新年号)は第三章の「織姫 ー 一宮」までの掲載となり、目指した一挙掲載はかないませんでしたが、八ヶ岳を離れる日には、実際の執筆は次の章まで進んでいました。

P3日輪の翼メモ2第2合宿

「日輪の翼」メモ、二度目の合宿のときのもの。「唐橋」の章は、「西陣」が「瀬田」に変更。「曼珠沙華—天の道」が加わる。(34から始まる数字は集計用紙のノンブル。57枚、54枚とあるのは、400字原稿用紙に換算した枚数)。(資料提供:鈴木力)

完結篇の合宿が始まったのは、年明けの1月16日。今回は、前述した文壇バーの大御所、「茉莉花」のママ奥田茉莉さんが空けてくれた御宅です。合宿を始めてまもなく大雪が降り、駐車場のマスタングは、積もった雪ですっぽり覆われました。
合宿での何よりの息抜きは三度の食事時間です。望月くんがつくる料理の味は格別で、中上さんも毎食楽しみにしていました。真冬になぜかスーパーにあった枝豆を茹で、薄皮を剥いて台所にあった網で漉してポタージュにするなど手のこんだ皿が出て来てびっくりしたこともあります。
合宿最終日、原稿も夕刻には完成の運びとなりました。望月くんが特に腕をふるって準備した料理を卓に並べ、酒も用意して待ったのですが、なかなか終わりません。予定時刻から一時間以上が過ぎ、さすがに待ちくたびれて声を掛けました。「ちょっと読んでくれ。」と渡された原稿を読むと、東京に着き、消えたオバたちをそっちのけにして、ツヨシと田中さんがホストになって働き始めているではありませんか。中上さんは、ふつふつ沸き上がる物語の力に抗することができず、新たな展開に入り込んでしまったのでしょう。でもこれでは小説が終わらない。雑誌ができません。結局そのホスト部分は削除され、当初の予定通りの形で完結しました。(活字にはならなかった新展開の部分は後に『讃歌』に引き継がれることとなりました。)

こうして完結編は、新年号の二号あとの昭和59年3月号に掲載されました。この二冊の目次を見ると、他にも自分の担当作家の小説作品やエッセイがいくつも並んでいます。その中で〆切前の一週間を一作品に集中することができたのは、坂本さん始め編集部の仲間の手助けがあってこそだったのですが、それにしても中上さんのこの執筆ペースは驚くべきものだったと思います。

今年、この作品はやなぎみわ演出による公演が日本各地で進行中です。また原田芳雄による映画化の話も、中上さんとの間でかなり深く進められていたと聞きます。中上さんの長編の中でも特に映画や舞台に関わる方々に注目される魅力が大きい作品なのかもしれません。
最後に、これも以前書いたのですが、やはり書き残しておきたいことが一つ。あるとき、『日輪の翼』というタイトルはいつどのように決めたのかと伺ったところ、「もともとは『重力の都』だったんだよ。だけどこのタイトルは短篇で使っちゃったんで、別のを考えたんだ。」とのことでした。ですから僕には『日輪の翼』は、長編『重力の都』だ、と呼びたい気持ちがいまもあります。

鈴木 力
Riki Suzuki

1952年生まれ。
1976年、新潮社に入社。以来二十年程「新潮」編集部に在籍。その間、長編『日輪の翼』、短篇連作『重力の都』米国紀行『アメリカ・アメリカ』、また大江健三郎氏、筒井康隆氏、
尹興吉氏、ピーター・ブルック氏らとの対談、フィリップ・ソレルス氏へのインタビュー掲載等の仕事に携わる。その後文庫編集部、出版部に在籍。2012年に定年退職。

おわりに

『日輪の翼』の誕生秘話はいかがでしたか?

鈴木力氏が文中で言及したように、本年、2016年、やなぎみわ氏演出の舞台『日輪の翼』が、全国各地で巡業公演されてます。台湾で製作された特注トレーラー車を舞台に見立て、迫力いっぱいのステージが展開されます。
お楽しみで、中上自身が生前に歌ったカラオケ音源がBGMとして流されるサプライズもあります。中上ファンには必見の公演ですね。

中上健次 電子全集6 『戯曲・シナリオ・小説集』
小説『火まつり』は、柳町光男監督、北大路欣也、太地喜和子出演の映画『火まつり』のノベライズ版。中上は1980年に三重県熊野市二木島町で、猟銃により一族七人を殺し自殺を図った男をモデルにして『火まつり』の主人公を造型した。作家はこの奇怪な衝動殺人の背景に、地下水族館の誘致問題で波立つ過疎の漁村という条件を設定、そこに街から帰ってきた一人の女によって一変する村の空気という要素を加えた。
『日輪の翼』は「路地」の再開発によって、居住地を追われたオバたちが若衆らの改造した大型冷凍トレーラーの荷台に乗せられ、伊勢神宮を皮切りに北は出羽三山、恐山まで聖地巡礼を行いながら、最終目的地である皇居で清掃奉仕に従事する展開。だがどうしたことか、オバらはそこで忽然と姿を消すのだ……。一方、『かなかぬち』は、1996年和歌山県の本宮大社旧社地など数カ所で実演された野外劇の脚本。楠木正成と噂される盗賊の首領で、全身が鉄の肌に変身する「かなかぬち」を、父の仇として追跡する姉・弟の物語。この仇に寄り添う女が、略奪された彼らの母であることが判明し、ドラマは大がかりな悲劇の様相を呈する。
中上-6

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