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中上健次・唯一の劇画原作『南回帰船』の物語構造と深遠に迫る

中上健次唯一の原作かつ、未完のまま終わった作品、『南回帰船』。まんが原作者で評論家の大塚英志氏が、その物語構造に深く迫ります。

未完の劇画原作『南回帰船』

中上健次の『南回帰船』は、「漫画アクション」(双葉社)で、たなか亜希夫の画により、1989年12月から1990年12月まで51回にわたって連載された劇画で、中上健次唯一の原作かつ、未完のまま終わった作品です。

幻のオートバイレーサーの息子として、突如サーキットに出現した主人公・草壁竹志は、満州国再興を夢想する老フィクサー伊藤深山の手引きで、横浜中華街に忽然と姿を現した元ボクシング世界チャンピオンのマイク・タイソンと対戦します。「血の神秘」によって打ち倒すと、旧清朝皇帝の宝として渡された妻“楊貴妃”とともに南太平洋へ向かい、ダバオに到着…といったところで中断されたままです。

貴種としての少年。楊貴妃。マイク・タイソン。日本人狩り。マッカーサーの亡霊の抱く原爆。あるいは甲賀三郎伝説とイラク。死の直前、南洋に、そして湾岸戦争へと暴走し、拡大していった中上サーガの一つとして、
遺作の一つ『異族』(「中上健次電子全集第18回巻」収録予定)とも相通じるストーリー仕立てとなっています。

まんが原作者で評論家の大塚英志氏は、『南回帰船』の散逸し活字化されていなかった原稿を収集。
劇画原作小説『南回帰船』として、中上没後13年経た2005年に、単行本化の監修にあたりました。
今回、中上健次電子全集に『南回帰船』が収録されるにあたり、大塚氏に改めて『南回帰船』について語っていただきます。

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P14 劇画「南回帰船」第1巻 表紙_01
1990年6月に双葉社から発売されたコミック『南回帰船』1 の書影

中上文学の神髄を語る(9)

構造と私
大塚英志

『南回帰船』を小説として改めて読み直した時感じるのは、主人公が徹底して「受動的」であることだ。中上は構造から演算することで小説は書けるのだ、と批評的にというよりはある種の愉悦としてさえ前世紀に語っていた。その時、中上の念頭にあったのは、明らかにプロップの『民話の形態学』だ。そして中上が実際に『南回帰船』で試みたのは、蓮實重彦言うところの「依頼と代行」の物語に他ならない。蓮實が『小説から遠く離れて』の中で村上春樹、村上龍、井上ひさし、丸谷才一らの小説が一見、多様に見えながら、しかし同時に「説話的な構造の同一性」を顕わにもする「薄気味悪さ」として論じた時、その時点ではかろうじて擁護されている印象の中上が、何故か、わざわざ遅れてその列に加わったようにも見えたものだ。実際『南回帰船』は、まるで蓮實がこの批評の終盤で三頁ほどに要約してみせた「依頼と代行」モデルとでもいうべきものから演算されたかの如き印象さえあった。『南回帰船』の時点で物語作者として半ば誉め殺しにされつつあった中上は、批評家が示した物語構造の中に身投げしているように思えさえしたものだ。
だが一体、わからないのは、中上の身投げの動機だ、とひとまずはとぼけて書いてみよう。

蓮實の示した物語構造は自明のこととして一人称の語り手、もしくは「主人公」の内面を想定している。だから、蓮實によって件の物語構造は以下のように叙述される。

〈あなた方には、われわれの冒険に加担する権利はない、と素人探偵はつぶやく、、、、。これは徹底して個人的な物語なのだ。これから始まろうとする冒険で意義のある役割を演じうるのはわれわれ二人に限られており、やがて目的が達せられてのち、首尾よく生還しえた者の権利としてわたくし、、、、が語るであろう物語に耳を傾けることだけが、あなた方に許されている唯一の楽しみなのだ。〉(傍点筆者)

この構造が小説となる時、それが、一人称で書かれようが、そうでなかろうが、それこそ、「つぶやく」ところの誰かがいるはずである。蓮實は何よりそのことを示唆している。物語消費論の時代が始まっていたのに、「あなた」(読者)を寄せつけない特権的な「作者」を所与のものとしている旧態さである。そのように、「わたくし」の「呟き」から疎外された「あなた方」の所在をわざわざ示すところに、蓮實の諧謔はある。ちなみに、蓮實のこの物語論的要約に最も印象が近いのは、この頃から今に至るまで一貫して村上春樹だろう。全くその点で村上は、筋は通っている。物語構造のなかで村上、あるいは、「ぼく」はひたすら呟き続けて来たではないか。だから、この時、蓮實が列挙した人々に共通なのは、プロップ的構造ではなく、構造であるはずの物語に「つぶやく」私を代入した点にこそあったはずだ。
構造と私。
問題はそこにこそ、あった。
そもそもプロップでもキャンベルでもランクでも誰でもいいのだが、彼らが構造を抽出した神話や民話の主人公には近代的な「私」はない。説話が人間の内的な変容の比喩だとしても、その過程は「旅」や「異装」といった構造上の「単位」として無機的に示される。だからプロップの31の機能に於いては、主人公は「依頼」されなければ旅立たず、「働きかけ」に反作用してのみアイテムを手に入れる。彼の中に主体的な動機などという近代的な装置などはない。
構造の水位に於いて、主人公に「内面」はなく、かつ、「受動的」である。そのようなものとしての構造に村上春樹は「ぼく」を代入したのである。あの時、蓮實が感じたのとは別の「薄気味悪さ」をぼくが今、あれらの小説群に感じるとすれば、神話的構造にひどく脆弱で空虚な「私」(丸谷でさえ江藤を激怒させた『なんとなく、クリスタル』的「私」であった)を一律に代入していく姿に対してである。そんなことをすればただの「ラノベ」、あるいは「セカイ系」にしかならない、とは今になってみればわかる。だから蓮見の『小説から遠く離れて』は文学がラノベにならない術を述べようとしていたのだな、とさえ言えるのだ。
しかし、だからといってその時、中上が構造から演算された物語を書いたことは、セカイ系への先駆というわけではない。そのことは『南回帰船』の原作テキストと劇画との間で何が起きていたのかを考えればわかることだ。
これは幾度か指摘したことだが、中上の「原作」は劇画家によって劇画として公表された時点で、小説に於ける「地の文」を奪われる運命にあった。ただし、中上の原作が村上春樹のように「一人称」を地の文としていれば、劇画家はそれをモノローグとして引用できたかもしれない。
しかし、中上は小説家の文体を発生させる場としての「地の文」が消滅する劇画という形式を選択した。そして、唯一、文体が残る一人称を選択しなかった。この時、一人称を選択していれば『南回帰船』の運命は変わっただろう。「ぼく」でも何でもいいのだが、一人称と構造さえあれば、中上はその物語を「ラノベ」に容易に変容できたはずだ。実際、webを少し探せば村上春樹の小説に萌えキャラの絵を付したスライドショーのようなものを見つけることができる。一人称と構造からなる文学はかくも「ラノベ」に置き換え可能なものなのだ。
そもそも考えてみれば、中上は「内面」の人である。そして、初期作品、中でも『十九歳に地図』がそうであるように、その主人公の「内面」が投影され得る世界はせいぜい新聞配達の担当区域内といった至ってミニマムな世界だ。そちらのほうが自然だ。だからこそ、主人公が世界への憎悪をミニマムな世界の外部に向けようと犯行予告の電話をかけても、それは、ただ冷笑されて、終わる。
改めて、そう考えてみれば、かつては文学にも社会にも、未成熟な自我を正しく拒む節度があったことが懐かしく思い出される。中上もまた、オールドスクールとして、世界に拒まれる自我をこそ描く節度を当初は持っていた。しかし、今や私たちはその節度を失ったといっていい。メールの犯行予告で簡単に社会は右往左往し、小説はツイッターレベルの「私」をセカイに接続してくれる。現実の「世界」の方がセカイ化したから、安倍やトランプやヨーロッパの極右政党党首の如きレベルのセカイ系指導者が台頭する。余計な話だが。
そもそも近代小説が「私」を世界に接続するには別の方策があったことを思い出そう。小説家が世界そのものを百科要覧的に記述し、主人公の「私」やその運命などは、無数の群衆の一人のものとして配する作法である。それはゾラが『ルーコン・マッカール叢書』全20巻でやってみせたことで、『居酒屋』さえその一冊に過ぎないのは言うまでもない。中上サーガの「出自」とされるフォークナーの架空地誌小説群ヨクナパトーファ・サーガもその類だったではないか。村上春樹は最初からそんな手間をかけなかったが、中上は当初は「路地」を起点とし、律儀にそれ、、を行い、そして『南回帰船』に至って、それを放擲した。その投擲によって、中上は文学に於いて(言うまでもなく、アニメーションやゲームやハリウッド映画ではとうに達成されていた)最初に「セカイ化」「ラノベ化」へと飛躍することはできたはずである。しかし、結果としてその名誉、ないしは不名誉からまぬがれえている。それは『南回帰船』には、セカイに接続されるべき「私」が、何故か、、、、不在だからだ。貴種として選ばれる少年も、恐らくはインセストタブーの対象としての妹も、黒幕も、『スターウォーズ』さながらに作中に用意されている。しかし主人公の少年には「運命」に選ばれた愉悦も、かといってエヴァに乗ることを拒み続ける碇シンジの如き成熟拒否もない。貴種の青年は、ひたすらに、ただ受容的に行動し、月並みなキャラクター論のいうところの「主人公の行動原理」など近代の創り上げた虚構なのだとでもいわんばかりのポストモダニズムぶりなのだ。だからセカイは示され、貴種流離譚の構造はあっても、キャラクターの「私」が不在である以上、ただキャラクターは構造上の次のステージへと、おもしろくも何ともなく移動する。
さて、そのポストモダン的主人公が貴種流離譚の説話構造を以て「接続」されるはずだったセカイとは何であったか。セカイ系に於いてセカイが主人公なり語り手の「私」の反映であるとすれば、『南回帰船』は主人公の不在の「私」、そして文体や小説を奪われた(あるいは放擲した)中上の内的なものの反映としての版図が、あたかも「大東亜共栄圏」としてあるのは、中上の「文学」としてのかろうじての、批評性なのか。
そうではあるまい。中上はつまるところ、セカイでも世界でもいいのだが、そのような版図への欲望を本当は欠いていたかったのではないか。そのあたりがかつて「政治少年死す」で、右翼少年を母胎としての天皇にマスターベーションとともに一挙に結びつけた、大江健三郎との違いではないか。中上は構造とセカイはあり、私のない物語を書いた。それが、中上の批評性が導き出した選択だという中上論はしかし、中上を反物語の作家とするかつてのほめ殺しと同じことになる。
ただ、ひとつだけいえるのは、この後、この空虚な版図に、あまりにも未熟な自我を次々と代入することで、オウム真理教が登場し、歴史修正主義がそれに続き、世界はセカイ化した、ということだ。

だとすれば、それ故、余計なお世話だろうが『南回帰船』は、現在への批評としてもう一度、作り直されるべきだ。こことここをこうすれば、そして、未完の部分を構造論的に導き出せばこうなって、と、中上がどうすべきだったかは同業者(無論、まんが原作者)としては手にとるようにわかる。実は、ここまでもっともらしく論じた問題の多くは、ようは中上の原作者としてのスキルに帰結する。だから中上論を語るより、いっそ「劇画」としてリメイクさせてくれた方が、丁重に中上を葬り去れるというものだ。ライターとして世に出かけた時、あいつに文芸批評を書かせろ、と言ってくれたらしい中上に多少の恩を感じていたので、『南回帰船』原作を十数年前、自費出版したのだったが、中上が頓挫した「劇画」を「劇画」として、きっちりと仕立てあげた方が良かったのかもしれない、と後悔が少しある。

大塚 英志
Eiji Otsuka

1958年、東京都生まれ。まんが原作者。神戸芸術工科大学教授、東京大学大学院情報学環特任教授等を歴任、現在は、国際日本文化研究センター研究部教授。原作作品『アンラッキー・ヤングメン』(藤原カムイ作画)には、ビレッジ・バンガードで働く中上健次と思しき人物も描かれる。

P17 劇画「南回帰船」第1巻 あとがき_01

コミック『南回帰船』1 原作者あとがき

おわりに

「仮に劇画用の『原作』であって『文学』でないという判断に基づくものだとすればそれは不幸なことである」と、大塚英志氏は単行本『南回帰船』の解題にて語っています。この埋もれていた原作を活字化した大塚氏の尽力に敬意を表したいと思います。
劇画コミックス原作『南回帰船』に加え、『熱風』、『大洪水』の3作品は中上健次電子全集第15回巻『増殖する物語世界 未完作品群』に収録されています。

中上健次 電子全集15『増殖する物語世界 未完作品群
中上晩年の未完3作『大洪水』『熱風』『南回帰船』では、「路地」の末裔らが、海外へと増殖していく……。

『大洪水』は、かつての「路地」世界から逃れ出た鉄男(浜村龍造の朋輩・ヨシ兄の息子)が、リー・ジー・ウォンの変名で登場、シンガポール、香港と渡り歩き香港社会を操る黒幕・ミスターパオに出会う。「路地」解体の時期に父親殺しを行ったこの主人公は英語を流暢に使いこなすプレーボーイで、中上作品になかったキャラクターに変態を遂げていた。

『熱風』は南米に渡った「天人五衰」(『千年の愉楽』)の主人公・オリエントの康(こう)の一粒種タケオが、「路地」の産婆オリュウノオバに渡すエメラルドを携え、東京新宿に現れ、紀州徳川藩の局(つぼね)の末裔・徳川和子、同藩毒味役の血を引く毒味男、オリュウの甥と名乗る「九階の怪人」の三人に出会う。物語は彼らが「超過激・超反動」の犯罪者グループを組織、バブル経済で膨れ上がった日本への復讐を企図、一路新宮の「路地」を目指す。

『南回帰船』は劇画原作。物語は、旧清朝皇帝の宝として主人公・草壁竹志(南洋漁船船員)に手渡されたる宝石といった道具立て、あるいは満州国再校を夢想する老フィクサー伊藤深山の登場など、作家晩年の未完作品の特徴でもある旧大東亜共栄圏の残影がそこかしこにちらついている。

中上-15

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