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スリリングで濃密な時間。中上健次『奇蹟』連載秘話

戦後を疾走し、わずか46歳で夭折した作家・中上健次。生誕70年を記念して「中上健次電子全集」が配信されております。そこで、当時元朝日ジャーナル」に連載された作品『奇蹟』の編集者・丹野清和氏が、スリリングで濃密だった『奇蹟』連載の日々を語っています。

戦後を疾走し、わずか46歳で夭折した作家・中上健次。生誕70年を記念して配信中の「中上健次電子全集」。第2巻「熊野紀州サーガ2 オリュウノオバと中本の一統」が5月20日より配信されました。

オリュウノオバは、「路地」の語り部として、「秋幸三部作」の主人公・竹原秋幸と並ぶ、中上“サーガ作品”の重要人物となります。
オリュウノオバとトモノオジを中心に、「路地」の戦後の変遷を描いた『奇蹟』は1987年1月~12月まで、「朝日ジャーナル」に連載された作品です。第2回は、元朝日ジャーナルの編集者として、『奇蹟』を世に送り出した丹野清和氏が、スリリングで濃密だった『奇蹟』連載の日々を語ります。

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酒場での中上健次。日本酒瓶をもってニコリ(撮影=篠山紀信)

担当編集、丹野清和氏が語る『奇蹟』の連載秘話

「俺たち、もう40歳だよね」

著:丹野 清和
※中上健次・電子全集 第2回「紀州熊野サーガ2 オリュウノオバと中本の一統」に収録されたエッセイを掲載しています。

『奇蹟』の連載企画は、「朝日ジャーナル」編集部内では危惧する声が強かった。理由は「無謀だ」というもの。原稿の取り難さ、さまざまな武勇伝はすでに伝説的なものだった。当時の編集長は筑紫哲也。部員の企画は最大限に尊重する人だった。「へえ、中上君が書いてくれるの」その一言で決まった。

中上との出会いは84年暮れ。知り合いの編集者の紹介だった。圧倒された。中上の大きな身体は高密度の重力体のような存在感があった。
丁寧な口調は年齢が同じで誕生日が一週間違いとわかると、にわかに饒舌になった。言葉が強力な磁力を放射してくるように感じた。声の響きが魅力的だった。やわらかで、時に紛れ込む新宮弁がそれを増幅させた。

会うたびに彼の放つ磁力に惹きつけられていった。ある時、写真家の北島敬三の名が出た。以前、連載エッセイの相手にと探したが連絡がとれなかったという。
北島と私は10年来の知己だった。長く東欧諸国に滞在して帰国、私の家で小さな展覧会を開く予定になっていた。当日、写真を見た中上は「この三人でいつか仕事しようよ」と言った。ほどなく、私は「朝日ジャーナル」に異動、一年後にグラビアを担当することになった。「北島の写真で、連載エッセイ」と頼むと、「小説を書きたい」と言った。こうして3年間、後にも先にも経験したことのない、スリリンングで濃密な時間を過ごすことになる。

86年9月末。ニューヨークに住んでいた北島のアパート。「原稿はニューヨークで」と冗談めかして言い残し渡米した中上は、いつの間にか北島のアパートに転がり込んでいた。同居が長引いて、二人の関係は煮詰まっていた。連載開始まで3ヶ月、私は遅い夏期休暇をとった。仲間が集まっての宴席。酔うほどに中上の罵倒が始まる。「連載をやめたい」と言う北島に、中上は「誰が書くか」と怒鳴って街に飛び出していった。私たちはリトルイタリーの祭りにでかけ、明け方近くアパートに戻った。真っ暗な部屋の中で、足を腫らした中上が呻いていた。ゴミ箱を蹴飛ばして捻挫したと言う。翌日、病院に運ぶために二階から中上を担ぎおろした。背中で中上が言う。「これじゃあ、書かないわけにはいかないよな」前夜の一件のいい訳のように。
87年1月。西新宿、深夜の喫茶店。

「俺たち、もう40歳だよね。いつまでも馬鹿やっていられないよな」照れを含んだ声で言った。
「そうだよね」私。とりとめのない会話の後、中上がぽつりと言った。
「丹ちゃん、原稿は絶対に落とさないから・・・信じて」

前夜のことだった。新宿2丁目の沖縄酒場。中上を囲む担当編集者の新年会があった。「奇蹟」はすでに始まっていた。原稿は押し詰まった昨年暮れ、新潟の温泉宿から北上、酒田市の駅前旅館で3回分を一気に書き上げ、帰りの特急列車の中でタイトルが『奇蹟』と決まった。

年末年始進行をかろうじて乗り切り、4回目の原稿を受け取る約束で、この宴席に顔を出したのだった。原稿はなかった。締め切りに余裕はない。「どうする」と問う私に、中上は荒れた。「原稿くれといえば、原稿が出てくると思っているのか」激高した言葉が続く。「じゃあ、どうするのか。これはあなたの問題でしょう」

中上は叩き割ったビール瓶を手に睨みつけてくる。睨み合いの後、中上は急に声を落として「やめた、もう書かない」と言う。私も「それなら、連載は続けられないよね」と返す。翌日は一日、悩んだ。このままでは連載は中止だ。中上に連絡はつくのか。日が暮れるころ、西新宿の仕事場に電話した。「はい、中上です」小さな声が返ってきた。彼もまた一日、電話を待っていたのだと確信した。
ニューヨークと新宿、二度の修羅場は、互いの距離と立ち位置を確認しあう通過儀礼のようなものだったのだと思う。

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『奇蹟』連載第1回「朝日ジャーナル」(1987年1月)誌面より。(新宮市立図書館 蔵)

原稿は2年間、一度も落ちなかった。下田や伊豆大島に館詰めにしたこともあった。銀座のホテルのロビーで、目の前で書いてもらったこともある。原稿を渡すとき、中上は明るい顔で「俺、偉いよね」と軽口を言う。約束の日時に原稿があがっていないときは、「頭がちりちりするんだ」と言った。苛立ちと悲しみと寂しさとが入り交じったような痛々しい表情で。その表情に、いつも負けた。

最終回の原稿は新宮で書くと言った。知り合って以降、この町をいくたび訪れたか。熊野本宮大社近くで行われた『かなかぬち』公演。「お燈祭り」にも参加、松明を手に異様な高揚感をおぼえた。小説の舞台となってきた新宮・熊野の各地を案内してもらったこともある。私は最終回だから原稿を取りに行くと伝えた。異動の内示があり、この原稿の受け取りが「朝日ジャーナル」最後の仕事だった。勝浦にある中上のマンションに泊まり、翌日の夕方『奇蹟』は完結した。

帰路、車窓に映る暗い海に目をやりながら、私は最終回の原稿を読んでいた。


丹野 清和 (Kiyokazu Tanno)

1946年生まれ。藤沢市在住。
早稲田大学第一政経学部卒業後、1970年、朝日新聞入社。出版局大阪編集部、「アサヒグラフ」「週刊朝日」「アサヒカメラ」「週刊朝日百科」「朝日ジャーナル」各編集部、「アサヒグラフ」「週刊朝日」副編集長を経て、「アサヒグラフ」編集長を歴任。「朝日ジャーナル」編集部在籍時代に『奇蹟』を担当。「写真の会」会員。

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「アサヒグラフ」中上健次追悼特集号(1995年)の表紙。当時、丹野氏が編集長を務めた

おわりに

『奇蹟』の連載秘話は如何だったでしょうか?

絶賛配信中の中上健次電子全集 第2回「紀州熊野サーガ2 オリュウノオバと中本の一統」は、「路地」の語り部オリュウノオバが登場する『千年の愉楽』『奇蹟』が収録された1巻です。

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『千年の愉楽』はオリュウノオバが語る「物語」の遺伝子が、オムニバス形式の見事な「近代小説」として甦った一作です。一方の姉妹作ともいえる『奇蹟』は、「路地」の戦後的な“美しい”年代記です。

付録として、長女・中上紀氏が熊野新鹿での父の残像を回想する「家族の道端」第2回のほか、『千年の愉楽』の生原稿、『奇蹟』の構想メモ等の貴重な資料が収録されています。

『中上健次』ファン必見ニュース

原作通り!『日輪の翼』が現実世界に!

『日輪の翼』(中上健次原作)ステージトレーラー野外公演が横浜赤レンガ倉庫で実現し、中上健次生誕70年を記念した野外劇「日輪の翼」が、6月24~26日18:30より、横浜赤レンガ倉庫イベント広場で上演されます。
演出がやなぎみわ(美術家、京都造形芸術大学教授)、音楽監督は巻上公一。原作では大きな存在感を示すトレーラーを実際にステージとして使うため台湾で製作。

原作に漂う滑稽と悲哀、解放と喪失、信仰とエロティシズムを描きながら、そこにポールダンスやサーカスパフォーマンスが加わります。
大規模野外劇として、中上健次ファン必見です。

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中上健次と親交の深かった吉増剛造展が開催

6月7日から東京国立近代美術館で開催される「声ノマ 全身詩人、吉増剛造展」では、中上健次と親交の深かった詩人・吉増剛造の多様な作品や資料を一挙公開。
中上直筆の生原稿『奇蹟』等10作品分も展示されますので要チェック!

詳しくはこちら>>


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