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【澁澤龍彦の生涯】破天荒なシュールレアリスト

フランスの小説家、マルキ・ド・サド作品の翻訳や幻想的な小説・エッセイで知られる澁澤龍彦。生誕90周年を迎え、注目を集めている澁澤龍彦の生涯や他の文豪との関わりを紹介します。

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フランスの小説家、マルキ・ド・サド作品の翻訳や幻想的な小説・エッセイの書き手として知られる文学者、澁澤龍彦

2018年は澁澤の生誕90周年にあたるだけでなく、人気漫画「文豪ストレイドッグス」の劇場版、『文豪ストレイドッグス DEAD APPLE』(3月3日公開)で新キャラクターとして彼が登場することも発表されており、いま、再び澁澤龍彦に注目が集まっています。

今回は、そんな澁澤龍彦の生涯にスポットを当て、知られざる彼の生活や文豪との交流関係、人となりについてご紹介します。

(合わせて読みたい:【澁澤龍彦のオススメ作品】エロスや幻想…人間の本質に迫る

 

冒険小説を読みふけった少年時代

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澁澤龍彦(本名・龍雄)は1928年5月8日、東京市芝区高輪車町(現・東京都港区高輪)に産まれました。幼い頃は引っ越しが多く、4歳で北区滝野川に移り住むまで、埼玉県川越市内で3回も転居をしたと自身のエッセイの中で記しています。

澁澤家は実業家・渋沢栄一の親類にあたる名家で、住んだ家はいずれも広い庭のある豪邸でした。澁澤龍彦の妹の幸子は、少年時代の澁澤と自分のことを、

子供時代の私たちは、日曜というと銀座に連れ出され、銀ブラをし、ニュースや漫画映画を見た後、外食を楽しんだ。上野の動物園や小石川の植物園にも家族で出かけた。両親とも外出好き、遊び好きだったのだろう。

『私の少年時代』より

と振り返っています。

澁澤は、図画工作と音楽が好きな子どもで、幼い頃は山中峯太郎、江戸川乱歩、南洋一郎といった作家の冒険小説を読みふけっていたといいます。リアルな作風よりも、ロマンティックな小説や怪奇・ホラー小説を好んで読んでいたのはこの頃からのようで、のちに自身のペンネームとなる「龍彦」についても、山中峯太郎の幻想的な冒険小説、『万国の王城』の主人公の名前が「龍彦」であったことが影響していると語っています。

旧制東京府立五中から旧制浦和高校に進学した澁澤は、フランス語教室に熱心に通い、フランス語を習得しました。勤労学徒として工場で働きつつも、休みの日には神田の古書店街でフランス語の詩や戯曲の原書を買い漁り、ひそかに翻訳にも手をつけていたよう。

澁澤はのちにエッセイ『私の少年時代』の中で、自身の少年時代をこう振り返っています。

「戦時下の生活がどんなに不自由かつ苦しいものだったとしても、昭和二十年以前、つまり私の黄金時代は、私にとって光りかがやいている」

 

「ポルノ作家」マルキ・ド・サドに傾倒

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フランス語を学び、フランス文学に傾倒した澁澤は東京大学文学部仏文科を受験しますが、2年連続で受験に失敗し、浪人生活を送ります。この頃、雑誌『モダン日本』の編集をアルバイトで行い、当時の編集長であった吉行淳之介のもとで働きました。吉行淳之介には可愛がられ、夜な夜なふたりで飲み歩き、吉行に自分の書いた小説を見せたこともあったようです。

東大受験にようやく成功した澁澤は、1950年、文学部仏文科に入学します。在学中はシュールレアリスム(※1)ダダイズム(※2)に熱中し、シュールレアリスムの中心的な存在であったアンドレ・ブルトンを熱心に読み込みました。やがてマルキ・ド・サドの作品に出会い、サディズムや耽美の世界にのめり込むと、サドの研究に励みました。

当時、サドは「ポルノ作家」「悪党貴族」などと呼ばれるほど評価の低い小説家で、澁澤の研究を学術的に評価する研究者は皆無と言ってもよいほどでした。澁澤は大学卒業後、肺結核を患ったこともあり就職口が見つからず、初めて「澁澤龍彦」の筆名を使いジャン・コクトーの『大跨おおまたびらき』の訳書を出版します。これが、澁澤にとって1冊目の翻訳作品となりました。

※1:理性の支配をしりぞけ、夢や幻想など非合理な潜在意識の世界を表現することによって、人間の全的解放をめざそうとした20世紀の芸術思想のひとつ。日本語では“超現実主義”とも訳されている。
※2:1916~22年頃ヨーロッパ,アメリカに起った反文明,反合理的な芸術運動。伝統的なヨーロッパ文明を否定し,既成のあらゆる社会的,道徳的束縛から精神を解放することで,個人の真の根源的欲求に忠実であることを目指した。

 

妻・澄子、三島由紀夫と知り合った青年時代

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岩波書店で校正のアルバイトを始めた澁澤は、同じく校正室で働いていた矢川澄子と知り合い、交際を始めます。澁澤はのちに、最初の妻となる矢川澄子に対し、3年にわたって熱心に手紙を送り続けたと言います。
結核に悩まされ正社員として就職ができなかった澁澤はこの頃、翻訳に熱中するのに加えて友人たちと同人誌を作り、短編集『エピクロスの肋骨』といった小説の執筆も行っていました。

1956年にはサドの作品を訳した『マルキ・ド・サド選集』を刊行。このとき、澁澤はファッション誌の出版社に勤めていた妹・幸子に

「今度の本に三島由紀夫の序文もらいたいんだけどね。三島さんに電話してみてくれないかな」

と依頼したと言います。幸子が渋々電話をかけると、三島は

「ああ、サドをやっていらっしゃる珍しい方ですね。あれは名訳です」

と序文の依頼を快諾。それをきっかけに、澁澤と三島との長きにわたる交際が始まりました。

 

「お祭り騒ぎとしておもしろく」。伝説のサド裁判へ

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1959年、澁澤はマルキ・ド・サドの『悪徳の栄え』を訳し、現代思潮社から出版します。しかし出版から2年後の1961年、この本に含まれる性描写がわいせつ物頒布等の罪にあたるとされて起訴され、澁澤はかの有名な「悪徳の栄え事件」の被告となってしまいます。判決は有罪で、澁澤には罰金7万円が言い渡されました。

澁澤はこの裁判の判決を受け、多くの週刊誌から取材をされましたが、

「たった7万円、人を馬鹿にしてますよ。3年くらいは食うと思ってたんだ。7万円くらいだったら、何回だってまた(本を)出しますよ」

と発言し、話題を呼びました。澁澤はこの裁判を始めから馬鹿馬鹿しいものだと捉えており、

「勝敗は問題にせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべく面白くやる」
「安保闘争以来の良識的ムードをぶっこわす」
「意見を一本に縛らず、めいめいが勝手なことを言う」

と方針を打ち立てて投げやりでいい加減な答弁しかせず、世間から注目を浴びました。この頃の澁澤は文人たちとの交流も多く、大江健三郎や大岡昇平、遠藤周作などが証人として法廷に立ち、サドの“文学性”を熱弁して彼を弁護しました。中でも三島由紀夫は、

「今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません」

とユーモアたっぷりの文面のはがきを澁澤に送るなど、裁判自体を楽しむかのような姿勢を見せていました。澁澤はこの頃、サドの文学論を中心に、美や自由についての独自の考察を展開した『サド復活』といったエッセイ集や、『犬狼都市』といった幻想小説の短編集を発表し、いずれも文壇から高い評価を得ています。

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(『サド復活』 P+D BOOKSのためし読みはこちら

 

龍子との再婚、知られざる天真爛漫な素顔

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新潮社「芸術新潮」の担当編集者であった龍子に出会い、前妻の澄子と離婚した澁澤は、1969年に再婚します。この頃の澁澤はすでに翻訳者・小説家として高い評価を受ける作家となっていましたが、同時にその自由奔放で破天荒な発言でも注目を浴びることが多々ありました。

妻の龍子が、澁澤と結婚する前のこんなエピソードを書き残しています。

銀座の画廊で展覧会を見る約束をしていましたが、いくら待っても現れません。
怒り心頭に達した私は帰りに澁澤の家に寄りましたところ「眠かったから寝ていた」とケロッとしています。
「あなたの眠いのと龍子とどっちが大事なのよ!」
「この宇宙は僕を中心に回っているからこれからもずっとそうだよ。そんなことで怒るのはおかしいよ」とシャアシャアとしているではありませんか。

『澁澤龍彦との日々』より

「この宇宙は僕を中心に回っている」――。あまりに自分勝手で笑ってしまうようなひと言ですが、龍子によれば結婚してからの澁澤は大らかで、約束は必ず守るよい夫だったといいます。澁澤は1981年には、泉鏡花文学賞を受賞しのちの代表作ともなった幻想小説『唐草物語』を発表しました。

1983年頃には、置き去りにされた兎に「ウチャ」と名前をつけて飼い始め、晩年まで可愛がりました。澁澤は時々、ウチャにボードレールの本を読ませるまねをして、

「お前もやっぱりボードレールか」

と満足そうにしていたといいます。

生涯にわたって体の弱かった澁澤ですが、咽頭がんで1986年に声帯を切除してからは、病床で闘病生活を送りました。入院中には鉱物やホラー、人形などをテーマにした幻想的なエッセイ集『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』を発表。構想していた小説の発表は叶わず、1987年8月、病院で読書中に静かにこの世を去りました。

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(『都心ノ病院ニテ幻覚ヲ見タルコト』P+D BOOKSのためし読みはこちら

 

おわりに

マルキ・ド・サドを日本に紹介した功績者としての名が知られている澁澤龍彦ですが、球体関節人形(※3)暗黒舞踏(※4)といった、当時はなかなか日の当たらなかったカルチャーに興味を持ち、エッセイの中で紹介した文化人としての一面も見逃せません。澁澤は、幻想的なものやエロティックなもの、退廃的なものすべてに、少年のように好奇心を働かせた、変幻自在の文学者でした。

澁澤の長年の友であった三島由紀夫は、澁澤について「その博識には手がつけられないが、友情に厚いことでも、愛妻家であることでも有名。この人がゐなかつたら、日本はどんなに淋しい国になるだらう」(『澁澤龍彦氏のこと』より)とも述べています。澁澤龍彦の生涯に触れてみると、偉大なる文学者が少し身近に感じられ、より彼の著作が楽しめるのではないでしょうか。

※3:関節部が球体によって形成されている人形の総称。
※4:舞踏家の土方巽ひじかた たつみを創始者とし、彼自身や彼の弟子たちの活動を中心とする日本の前衛的なダンスの名称。

【参考文献】
澁澤龍彦『私の少年時代』
現代思潮社編集部『サド裁判』
澁澤幸子『澁澤龍彦の少年世界』
矢川澄子『おにいちゃんー回想の澁澤龍彦』

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