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私たちは、死ぬ時だって社会人だ。山崎ナオコーラ『美しい距離』インタビュー。

小説は〈死〉をどう描くのか……そんな難問に対し、ディテールを丁寧に積み重ねることで、他に類をみない回答を示した『美しい距離』はどのように生まれたのか。作家インタビューを通じて、小説と社会との関係から、”文学という大きな仕事”に対する野望まで、ディープなお話を伺いました!

私たちは、誰かの死と向き合う時、その人が生きた人生の意味をしばしば〈物語〉というフレームワークの中で解釈します。

つまりそれは、人生という限られた時間の中に「終わり」を措定するによって、そこに向かって一直線に発展していくプロットが生まれ、さらにその「終わり」から逆算されるように、残りの時間の「意味」が発生するということ。

しかし、山崎ナオコーラの新刊、『美しい距離』は、そのような「余命の物語」に対して“NO”を突きつける小説です。その代わりとして作者は、看病する人間、看病される人間それぞれの人間関係を詳細に書きこむことによって、「誰かが死ぬ」ということの総体を小説の中に浮かび上がらせているのです。

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〈死〉を描く小説でありながら、〈死の物語〉を拒否する——そのような制約の中で、物語未満の、人生の美しいディテールを描き出すことに成功した『美しい距離』は、一体どのような試行錯誤、どのような問題意識によって生まれた作品だったのでしょうか?

小説執筆における〈物語〉と〈ディテール〉との緊張をはらんだ関係に始まり、〈死〉と〈社会〉という問題、さらにはナオコーラ氏が作家として掲げる野望にまで踏み込んだ著者インタビューを通じて、P+D MAGAZINEがその答えに迫りました。

 

〈取材・文:加勢 犬(P+D MAGAZINE編集部 )〉

「うねり」か、「細部」か。ナオコーラ流、小説執筆術。

[…]「若いのに、なぜ」「たばこを吸っていないのに、なぜ」と度々頭に浮かんで来るのは、病気に対して因果応報の物語を当てはめようとしているからだろう。予防をしたい人ならともかく、すでに病気にかかっている本人やその家族が、原因についてこだわることで見えてくる明るい方向などないような気がする。

新しい物語を見つけなくては。

年齢のことは忘れよう。因果応報のことも。

『美しい距離』

——『美しい距離』を読んだ最初の印象として、ナオコーラさんのこれまでの文章から何かが変わったように思いました。具体的に言えば、人物の思考をより詳細に追って、細かなロジックを積み上げるというスタイルへの変化を感じたんですね。執筆に際して、いつもと違う伝え方を試みようといった思いはあったのでしょうか。

 

山崎ナオコーラ氏(以下、ナオコーラ): よく、「小説を書くということは、小説のうねりに身を任せることだ」というようなことが言われるのですが、それは他の人の仕事であって、私としては小説のうねりに身を任せるよりも、最初に文章ありきの小説が書きたいと思っていました。そしてそれとは逆に、「小説の文章を書く上では、エッセイのような身振りや主張は極力排した方がいい」というようなこともよく言われるのですが、細かいところに力を入れてこそ私の仕事だというのが段々自覚できてきて。

これまでも自分の作品が批判を呼ぶことはあったのですが、それは細かいところを頑張るという部分で吹っ切れていなかったせいだと思うようになりました。だからこれまでよりも一層、細かい描写に力を入れて、たとえエッセイっぽい文章だと言われても、「かっこいい文章になれば、それでいいじゃん」と思って書きました。無駄を排除していて、気取っていない、親切な文章が書ければと。

 

——ナオコーラさんはこれまでにも「誰にでもわかる言葉で、誰にも書けない文章を書きたい」という目標を掲げていましたよね。ちなみに、その「うねり」というのは、より具体的にいうと何のことなのでしょうか。

 

ナオコーラ:正直、私もよくわかっていないのですが(笑) ただ、他の人の小説を読んでいて、「うわぁ、小説だ」と思わされるような、いわゆる〈物語〉の構成を感じることはあります。おそらく、その〈物語〉の展開が「うねり」と呼ばれているのだと思います。

ただ、私自身としては、そういう「うねり」を表現するために言葉を用いると、言葉が〈物語〉に対する奴隷のようになってしまうのではないか、という不安がありました。むしろ私は、言葉が先に立つような小説を書きたい。その上で、「でも小説だ」と思わされるようなものが書ければいいなと思っています。

 

——なるほど。その点、『美しい距離』は、物語のピークに言葉が向かっていくような語りの方法を、アンチクライマックス的な手法を用いて回避していますね。ナオコーラさんは、あくまでも「言葉として何ができるのだろうか?」という可能性を最優先して文章を組み立てている。だからこそ、ロジカルでエッセイにも似た文体になっているのでしょうか。

 

ナオコーラ:バシッと断定的なことを書くな、とよく言われるのですが、「かっこいい文章なのであれば、バシッとしたことを言ってもいいのでは?」というのが私の立場です。

私はエッセイも時々書くのですが、小説もエッセイも言語芸術なのだから、分けて考える必要がないのではないかと思うんですね。皆、「小説とは?」というようなことをよく議論するのですが、結局のところその答えは人それぞれなので、エッセイも小説も同じで、言葉にページをめくらせる力があれば良いと思っています。そのために、「この文章はいい文章だろうか?」「これに続くかっこいい文章は何だろう?」ということを積み木を重ねるように思考しています。

 

小説は人間関係の積み重ね

文章は、ただの文字の羅列である。ふにゃふにゃした線が紙の上にあるだけのものだ。そんな線はもちろん、肉体や権利を持つ生身の人間とは別のものである。それでも、人はその羅列を見たとき、キャラクターを感じ、惹かれる。

「硬くて透明な飴」

——〈物語のうねり〉よりも、〈言葉同士の連なり〉を大切にして文章を組み立てていくということは、ナオコーラさんの過去の小説論の延長線上にある気がします。『美しい距離』の中では、その手法が、“誰かの人生を〈物語〉として捉えるのではなく、〈関係性の束〉として捉えよう”という作品全体のテーマとしても色濃く現れているように感じました。

 

ナオコーラ:そういう風に読んでいただけて、すごく嬉しいです。これまで、自分の小説が度々批判を受けてきていて、「何かしら大きなことにチャレンジしなくてはいけないのではないか」「はっきりと小説らしい文章を書かなくてはいけないのではないか」と考えていたのですが、そのうちに「小説というものは、人間同士の関係を描く以外に何を書けばいいの?」と思うようになったので。

実は、『美しい距離』の第一稿は、“敬語の小説”として書いていたんですね。「人が死ぬ」ということを除いては、設定も、登場人物もまるで異なる小説でした。それを書き直すことになり、結局のところ私がやるべきことは、「情景描写をしっかりやる。人間関係を細かく書く」というただそれだけのことで、それをやりきることこそが、自分にとっての文学的チャレンジなのではないかと考えるようになりました。

「人が死ぬ」ということは誰でも経験することで、それだけを書くと「何も言っていないじゃないか」と言われるようなことなのですが、細かく細かく丁寧に描写をすることによって、人間関係の細かい部分も丁寧な言葉、いい文章で書き上げることができたとしたら、読む側にも「いい小説だ」と思ってもらえるんじゃないかと。

 

——「人と人との関係」ということで言えば、介護や保険にまつわる制度的なあれこれや、休暇申請の手順、お通夜や告別式の手順に至るまで、作家が嫌いそうな細かな手続きに関しても省かずに描写しているのが印象的でした。

 

ナオコーラ:画家の山口晃さんが、小さな人間をたくさん描きこむことによって、大きな絵を完成させているのですが、小説でもそれと同じようなことができるのではないかと思ったんですね。つまり、全体像として物語の骨組みが先立ってあるのではなくて、細かいことを積み重ねているからこそ、全体が出来上がっているというような、そんな書き方ができたらいいなと思いました。

死後の手順ということで言えば、小説を書き直すことになってから、「私がやりたいのは終末医療だ」と思って、そのためには気をてらった仕掛けを用意するよりも、丁寧な仕事をしようと思いました。

 

(次ページ:小説は〈死〉をどう描くか。「社会派作家」ナオコーラの野望)

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