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山崎ナオコーラ『美しい距離』インタビュー。私たちは、死ぬ時だって社会人だ。

小説は〈死〉をどう描くのか……そんな難問に対し、ディテールを丁寧に積み重ねることで、他に類をみない回答を示した『美しい距離』はどのように生まれたのか。作家インタビューを通じて、小説と社会との関係から、”文学という大きな仕事”に対する野望まで、ディープなお話を伺いました!

「終わり」とどう向き合うか

「秋は好きですか? オレは夏が好きだから、秋は『終わり』のイメージです。楽しいことが終わって、ちょっと切ない。でもその、きゅんとする感じも悪くねえかなって」

『人のセックスを笑うな』

ターミナルにある三番乗り場から「新田病院行き」のバスに乗り込む。「バスターミナル」「ターミナルケア」という語を口中で転がす。こう言う場所の名前と、病気の終末期をあらわす言葉が同じというのが、意味を考えれば腑に落ちるとはいえ、イメージが全然違うので面白く感じられ、口の端がちょっと上がる。

『美しい距離』

——「終末医療がやりたい」という思いで『美しい距離』を執筆されたとのことですが、過去作の中でもナオコーラさんの文章には、晩夏の匂いと言いますか、「終わり」の感覚がうっすらと漂っていたと思います。

そういう意味で、今回の『美しい距離』でも、「ターミナル」という言葉を拾い上げることから、小説のテーマが駆動し始めるように感じられたのが興味深かったです。

 

ナオコーラ:「終わり」というのは、とても面白いものだと思っています。小説や映画などは〈時間〉を扱う芸術で、私も小説を書く作家である以上は、「終わり」がどういうものかをうまく、かっこよく書きたいという思いがあります。

良い小説を読んでいると、終わっていくのが寂しくなるような感覚がありますよね。さらに、「終わるよ、終わるよ」という雰囲気が出始めることによって、作品がより一層おもしろくなる。そのように、「終わり」をほのめかしつつも終わらないのがいいのかもしれない。

 

——なるほど、それは先程までの「(物語の)うねり」のお話ともつながるテーマですね。『美しい距離』では、死がクライマックスになるのではなくて、死後も延々とディテールを積み重ねるような書き方をされている。

 

ナオコーラ:そうですね。振り返ってみると、デビュー作の『人のセックスを笑うな』の中でも「会わなくなったからといって終わりじゃない」というようなことを書いたのですが、それこそ私が一番書きたいことだったんだと思います。

私は小説を通じて「愛とは何か」というような壮大なことを書きたいのではなく、あくまでも人と人との関係を書きたい。さらに、「たとえ会わなくなっても終わりじゃない、関係があるし、距離がある」ということを表現したいと思っています。

それに、「小説」という形式はそれを表現するのにうってつけなんですね。時間を扱っている上に、言葉だけで成立している芸術だから、「人と人とが会っている/会っていない」がそんなに気にならない。小説は、そこに誰かがいなかったり、たとえ死んだりしていても、そこにある距離感を描くことができるんです。

 

——距離感ということで言えば、様々な人間関係の描写の合間にポンと挿入される、「耳かき」や「髪結い」、「爪切り」といったような、密な身体的接触のエピソードがありますよね。それらのエピソードが本当に生き生きと、楽しく読めるのはなんでだろう?と思いながら小説を読みました。

そして、それに対して答えがないのもまた良いんですよね。これらの場面には、「何だかわからないけれど、そうだよな」という不思議な説得力があって、説明がないのがまたいい。こう言うディテールの選び方は、何を素材にしているのでしょうか。

 

ナオコーラ:私自身の父が2年前に癌で亡くなったので、その時のエピソードから湧き出てきている文章もあると思いますが、おっしゃる通り、ディテールの積み重ねることでぐっとくるような文章がいいなと思っているので、「ストーリーの都合上、ここにはこういう描写が必要だ」という書き方ではなくて、「何でここにこんなディテールが必要なのかはわからないけど、ここに置くとぐっとくるな」というタイミングで描写を積み重ねています。

 

「社会派作家」として〈死〉を描く

周りからどう思われたって構わない。世間一般の夫婦のようになるのではなく、ただの人間関係、社会人同士として一緒にいよう。二人の生活のためにサンドウィッチ屋を経営しているのではなく、社会活動としてやっているのだと思って応援しよう。

『美しい距離』

——ナオコーラさんは以前、「30歳になってからは社会派作家になりたい」ということをコラムの中で書かれていましたが、ナオコーラさんの中で「社会派」という言葉が意味するところ、さらには「社会人」という言葉の用い方が非常にユニークだな、と感じています。

日本的な私小説の伝統では、社会的な存在としてのあり方から離れたところで、“内面的な人間”として存在するということが善しとされるような風潮がある中で、ナオコーラさんにとって「社会人」という言葉が意味するところについて詳しくお聞かせください。

 

 

 

ナオコーラ:私は、人間はどうしたって社会的な生き物だと考えています。私自身も、いついかなる時も、たとえ家にいるときだって社会人だと思います。なので、人物を「社会人」として描くということは、その人のプライベートと区別される側面を描くということではなくて、その人そのもののことを描くということなんだと思っています。

 

——つまり、「誰かのことを書こうと思ったら、その人と社会との関わりを書くほかない」というお考えなのですね。

 

ナオコーラ:その通りです。実は「社会派」ということを私が勝手に言い出したのも、一時期、中村文則さんが「社会派作家」と呼ばれていることを非常に羨ましく思っていたことがあって(笑) 確かに、中村さんは立派な社会派作家だと思いますが、それに対して「私だって社会派と呼ばれていいじゃん」と思ったんです。

別に社会派であるために大きなテーマを論じる必要はなくて、例えば普段の生活でカフェにいる時でも、コーヒーに400円を払うのか、どういう風にお金を使うかを決めることだったり、店員さんにどう接するかということだったりも社会人としての行動です。だから、そういう細かなことについて文章を積み重ねていくのも、社会派作家としての役割だと思っています。

 

——2016年上半期の芥川賞候補作の中に、ナオコーラさんの『美しい距離』と好対照な作品として、高橋弘希さんの『短冊流し』という作品がありましたが、その小説では、語り手がどこか“個人的な体験”、あるいは内省的なドラマとして病床の娘を眺めている。その点、ナオコーラさんは〈死〉と〈私〉、もしくは〈死〉と〈社会〉という問題についてどうお考えですか?

 

ナオコーラ:私は、病院もまた社会の一部なのだから、病院の中でどう振る舞うか、どういう言葉をかわすか、それだって社会的な振る舞いの一部だと思います。

あとはやっぱり、私が抵抗を覚えるのが、「死は家族のものだ」という考え方なんですね。いやいや、死だって社会のものだろうと。だから、「死ぬ直前であっても仕事のことを考えたりしてもいいじゃない」と思うんです。

私は『美しい距離』を病床の妻を看取る夫の視点から描きましたが、家族の死は一大事だとはいえ、死ぬ当人からすれば夫が一番大切じゃないタイミングだってあるということを場面を通じて表現できたかな、と思います。家族が一歩引くべき、距離をとるべきタイミングもあると思うんです。そういうのが、社会なのではないかと思います。

 

——語り手が生命保険の仕事をしているというのも、「死もまた社会的なものだ」というテーマの一環なのでしょうか。

 

ナオコーラ:保険というのは素晴らしい制度で、お金のやり取りがあるからこそ、困った時に遠くにいる人が助けてくれたりする。昔は家族だけで助け合いをしていたけれど、今は社会が成熟してきたので、保険などのシステムがあって、助けてもらうために仲良くする、看取ってもらうために仲良くするという必要がありません。すべて「ただの人間関係」でよくなっているので、家族はそんなに大事じゃないんですね。

 

——そのことで、ちょっと疑問があります。『美しい距離』の語り手は保険の営業マンでありながら、死を交換可能な物語に還元してしまうことを嫌がっていますよね。だけど、お金はすべてを交換可能なものにしてしまうし、保険企業は、ある程度パターン化された物語の中に顧客の人生を押し込むことだって仕事なんじゃないかと思うんです。

 

ナオコーラ:そうですね。結局、人は物語から離れられないじゃないかと思います。どこかに物語がないと、社会は成り立たない。ただ、〈物語〉としてパターン化されてしまうことについては、苦しみを覚える人、痛みを感じる人たちが大勢いるので、それは小説としてすくい上げなくてはいけないところです。

 

作家として社会に関わる:山崎ナオコーラの野望

——今回、ナオコーラさんは『美しい距離』の出版に合わせて、Twitterを通じて著者インタビューを募集したり、「いろんな人にこの作品のことを話してほしい、批評してほしい」ということを発信していましたが、こうした発信をすることの背景にある思いはなんだったのでしょうか?

 

ナオコーラ:作家がそういうことを考えるのは良くないかもしれないのですが、自分にはどうしても「社会と関わりたい」という欲求があるんですね。バッシングでもいいから、社会参加しているという実感がほしい。作家をしていると、友人たちからも趣味の一環だと思われることが多くて……。

だけど、自分の作品が世に出ることによって社会が何か変わるかもしれないし、お金のやり取りもしてるし、「いやいや、小説を書くことだって社会活動だから!」と声高に訴えたくなるんです。とはいえど、実感として自分が社会活動をしているとは感じられないこともあるので、そういう時、批評があると嬉しいのかもしれないです。

 

——ここでもやはり「人間関係」へのこだわりや、「社会人」としての意識をお持ちなのですね。では最後に、作家として「社会や文学の現状をこう変えたい!」といったような野望はお持ちですか?

 

ナオコーラ:野望、ですか……。やっぱり、「社会人として、作家をやりたい」「作家として、社会参加をしたい」という気持ちはあります。それは大きなことでなくてもよくて、社会に対しての働きかけというのはもっと小さなことでも可能ですよね。もちろん文学者としての大きい仕事はしてみたいですが、仮に作家として名前が残らなかったとしても、それが社会人としての活動になっているということはあり得ると思います。

例えば、私がいなかったら他の人たちの仕事はちょっとずつ変わっていたかもしれないし、日本文学史の展開も、たとえ自分の作品が残っていなかったとしても何かしら変化しているかもしれない。そんな風に、自分の仕事が何かしらの流れを変えているということは想定できますよね。

そうやって、小さい仕事でも一生懸命やって、自分が小説を書くということが“文学という大きな仕事”の一部になっていると感じたいです。その結果、それこそ「文学は大学の人文系学科に追いやられた意味のないもの」といった風に文学が廃れていくのではなく、社会の中で意味があるものとして残っていくような未来を作れたとしたら、それが私にとっての社会参加になるのかな、と思います。

 

<了>

 

山崎ナオコーラ プロフィール

1978年、福岡県北九州市生まれ。

2004年、文藝賞受賞作『人のセックスを笑うな』でデビュー。過去作は「手」(2009)、『この世は二人組ではできあがらない』(2010)、『ニキの屈辱』(2011)など多数。『美しい距離』(2016)は、5度目の芥川賞候補作に選出。

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