『繭と絆』
ポスト・ブック・レビュー【この人に訊け!】
山内昌之【明治大学特任教授】
繭と絆
富岡製糸場ものがたり
植松三十里著
文藝春秋
1600円+税
装丁・装画/蓬田やすひろ
勧業時代の逸話をちりばめた勤労女性の愛と友情
当世ではまぶしいほど純粋な男女の愛と信頼に結ばれた物語である。
主人公は、世界遺産指定で有名になった富岡製糸場の最初の工女となった尾高勇。その父惇忠は場長でもあり、元は学識豊かな村の名主を務めるかたわら、若者たちのために塾を開いていた。
彼は、工女に論語や生花など倫理や教養を身に着けさせながら、フランス式の近代製糸機械の使用を習得させる。その模範となるのが勇であった。勇は、糸繰り用と茹でる用の釜をそれぞれ2つずつ駆使しながら、生糸の巻き取りにむらが出ない巧みな技を自在にし、他の工女にも親切にコツを教える。
無口でもいちはやく熟練工になる敬や、不平不満たらたらながら憎めない器量良しの貴美との友情や葛藤の場面は、さながら映画の情景そのものである。ウィーン万博出品の特級生糸の二等進歩賞入賞や皇后・皇太后の工場行啓など、明治の勧業時代を偲ばせる逸話も巧みにちりばめられる。
小説の細部は、女性が初めて市民社会に出て勤労の意味を知り、愛する男と互いに信頼しあう喜びに充ち溢れている。
勇の叔父は明治資本主義の父ともいえる渋沢栄一であり、惇忠の教え子だった許嫁の永田清三郎は第一国立銀行専務の養子に入って成功する。このあたりは、生糸製造とフランス人お雇いと官業の民営化などの筋も絡み、小説から自然と日本資本主義発達史の一コマを知ることもできる。
技術指導のフランス人たちの帰国を送別する勇たちの女歌舞伎のあでやかさ、権力闘争の犠牲となって富岡を去る惇忠と勇の寂しさなど、筋の展開は起伏もあり読者を飽きさせない。
小説は勇が清三郎と結婚するところで終わるが、史実では5男3女を儲けて64歳で幸せな一生を終えたらしい。
いずれ、本格的に映画かテレビになる作品であろう。勇ほかの登場人物を演じる女優は誰かと想像しながら読むだけでも楽しい小説である。
(週刊ポスト2015年10/16・23号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
文月悠光著『洗礼ダイアリー』は平成生まれの詩人による初エッセイ集。著者にインタビュー!
中原中也賞を18歳で受賞した、平成生まれの詩人が、「生きづらさ」を言葉で解き放つ。研ぎ澄まされた言葉で日常や身辺を綴る、記念すべき初エッセイ集。その創作の背景を、著者にインタビュー。
-
今日の一冊
卯月妙子著『人間仮免中つづき』は深刻な現実をユーモラスに描く感動作!
闘病しながら紡がれる、強靱な愛に満ちた日々。深刻な現実をユーモラスに描き、笑いと涙と感動を呼ぶコミックエッセイの続編。その創作に込めた思いや背景を、著者にインタビュー!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】古矢永塔子『七度笑えば、恋の味』/第1回日本おいしい小説大賞、満場一致・・・
わけあって顔を隠し、高齢者施設で働く28歳女性。その心をときほぐし、背中を押してくれたのは、温かい手料理だった――山本一力、柏井壽、小山薫堂各氏を選考委員として新設された「日本おいしい小説大賞」第1回目の受賞作!
-
今日の一冊
池谷裕二、中村うさぎ『脳はみんな病んでいる』/「同病あい憐れむ」スリル満点の対論ドキュメン・・・
脳研究者の池谷裕二氏と神経系の難病と診断された中村うさぎ氏の、脳に関するエキサイティングな対談。火花散る二人のやりとりが痛快です。
-
今日の一冊
原田隆之『痴漢外来――性犯罪と闘う科学』/性的依存症はどれほどキツいものなのか
「脳があたかも、セックスに乗っ取られてでもいたかのよう」になるという、性的依存症。満員電車での痴漢や盗撮など、巷にあふれる性犯罪を減らすためには、刑罰に加えてこの依存症の「治療」が必要だといいます。
-
今日の一冊
白石一文著『記憶の渚にて』は直木賞作家による傑作長編!著者にインタビュー!
直木賞受賞作家が放つ最新傑作長編は、予想だにしないラストが圧巻!記憶をテーマにした三部構成の小説は、驚愕の展開をたどるーーその創作の背景を著者・白石一文にインタビューしました。
-
今日の一冊
忘れてはいけない「平成」の記憶(8)/倉塚平『ユートピアと性』
平成日本に生きた者として、忘れてはならない出来事を振り返る特別企画。
平成7年3月に起きた地下鉄サリン事件のあと、オウム真理教の女性へ取材を重ねたノンフィクションライター与那原恵が、オウムに似たアメリカの閉鎖的共同体の全容に迫った一冊を紹介。 -
今日の一冊
住田裕子『シニア六法』/認知症による万引き、高齢者ドライバーの事故……さまざまな問題に直面・・・
元検事で弁護士の著者兼監修者が、高齢者にまつわるトラブルのリアルで豊富な事例を集めた1冊。シニア世代が心豊かに過ごすための法的知識が、わかりやすくコンパクトにまとまっています。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】高山羽根子『如何様』/敗戦後に帰ってきた男は本物か、偽物か
戦後の混乱期に帰ってきた男は、出征前の姿とは似ても似つかず、別人にしか見えなかった――。ありがちな成りすまし事件に見せて、虚と実を巡る思わぬ境地に読者を誘う傑作!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】佐藤亜紀『黄金列車』/ユダヤ人の金銀財宝を積み込んだ列車の迷走劇
1944年にブダペシュトを発ち、道中、保管庫に立ち寄ってお宝をごっそり積み込んだ通称・黄金列車。その約4か月に亘る迷走劇を、積荷の管理を命じられた大蔵省の中年職員らの奮闘を軸に描いた傑作。
-
今日の一冊
山本七平著『戦争責任は何処に誰にあるか 昭和天皇・憲法・軍部』に示される独自の論考。平山周・・・
「戦争責任論と憲法論は表裏にある!」「知の巨人が『天皇と憲法』に迫る!」と帯のコピーに謳われている本書。「空気の研究」は山本七平を代表するもののひとつですが、本書ではその思想史を深め、憲法をめぐる論議が盛んな現状に一石を投じます。平山周吉が解説します。
-
今日の一冊
『B面昭和史1926-1945』
-
今日の一冊
山田詠美『ファースト クラッシュ』/三姉妹をトリコにした「みなしご」の少年
裕福な高見澤家の三姉妹のもとに、突然あらわれた「みなしご」の少年。魔物のような魅力をもつ彼に、みな心を奪われていく――。三姉妹の自我と情熱と欠落が事件をまきおこす、ハードボイルド・ロマン。
-
今日の一冊
秋山武雄『東京懐かし写真帖』/子どもの頃を思い出す、古き良き下町風景
浅草橋の老舗洋食屋の店主が、約70年にわたって撮り続けた下町の風景写真集。ページをめくれば、子どもの頃によく目にした懐かしい情景が蘇ります。
-
今日の一冊
『影の中の影』
-
今日の一冊
月村了衛著『水戸黄門 天下の副編集長』は痛快時代娯楽小説!著者にインタビュー!
あの手この手で楽しませようとする構造で描いた、原稿集めの珍道中。爆笑必至、痛快時代エンターテインメント作品が登場!著者・月村了衛に、創作の背景をインタビューします。
-
今日の一冊
迷える青春群像が大人になった姿『教養派知識人の運命 阿部次郎とその時代』
主人公は大正から昭和の途中まで「青春のバイブル」とされていた『三太郎の日記』の著者・阿部次郎。栄光を手にしたあと、徐々に負け組になっていく阿部の波乱万丈な人生を記した評伝を紹介します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】箱根で悲願の初優勝を果たした東海大学陸上部の、もうひとつの駅伝/佐藤 ・・・
お正月の風物詩であり、国民的行事ともいえる箱根駅伝。大勢の応援客のまえを華々しく駆けぬける走者の裏側に、走者に選ばれなかった部員たちの闘いがあります。第95回箱根駅伝で初優勝した東海大陸上部の4年生に密着した、胸を打つノンフィクション。
-
今日の一冊
村上春樹 編訳『ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集』/アメリカを代表する作家の晩・・・
1925年の長編小説『グレート・ギャツビー』の作者であり、アメリカ文学を代表する短編の名手であるスコット・フィッツジェラルド。その晩年に書かれた作品を、村上春樹が編訳した一冊を紹介します。
-
今日の一冊
死刑執行直前の思いとは――『サリン事件死刑囚 中川智正との対話』
地下鉄サリン事件の捜査に協力した生物・化学兵器の専門家が、サリン製造に大きく関与した死刑囚・中川智正と対話を重ね、その死刑執行後に出版した書。ノンフィクションライターの与那原 恵が解説します。