ペーター・シュタム著『誰もいないホテルで』は現代社会からはずれた静けさが魅力。川本三郎が解説!
湖と丘陵の土地に暮らす人々に訪れる、孤独の瞬間。静けさがこの短篇集の一番の魅力。繊細で、簡潔な訳文が秀逸な、世界で愛読されるスイス人作家による10の物語を、評論家の川本三郎が解説します。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
川本三郎【評論家】
現代社会の騒々しさからすこしはずれた「静けさ」が魅力
誰もいないホテルで
ペーター・シュタム 著
松永美穂 訳
新潮社 1700円+税
装丁/新潮社装幀室
装画/矢吹申彦
いい短篇は詩だ。日常のなかに不意に遠い世界が現われる。平凡な現実が一瞬、聖化される。
珍しいスイスの作家(一九六三年生)の十篇から成る短篇集。殺人も不倫も超常現象もない。われらの隣人たる普通の人々の暮しが描かれてゆき、そこにいつしか美しい孤独の瞬間が訪れる。
多くはスイスの小さな町を舞台にしている。現代社会の騒々しさから少しはずれている。静けさがこの短篇集の第一の魅力。
「誰もいないホテルで」はゴーリキーの文学研究者が論文を仕上げるために人里離れた湯治場のホテルにやってくる。
女性が一人で応対する。客は他に誰もいない。サービスは悪く、食事は缶詰。電気はつかない。不思議な時間が流れる。
どうもこのホテルはすでに廃業しているらしい。とすると、応対した女性は何者なのか。この短篇には結論、解決はない。謎は謎のままで残る。その不可思議のなかに生の貴重な一瞬がある。
「氷の月」も素晴しい。湖畔にあった工場が廃業し、建物が芸術家たちのアトリエに貸出される。そこの管理人の小さな夢が語られる。彼はリタイアしたあとカナダに移住し、そこでログハウスの宿を作ろうとしている。自分で設計図も描いている。
しかし、彼の妻は重い病いを患っていたことがあとでわかる。そんな状況で彼はなぜカナダ移住の夢を語ったのか。ここでも結論は明らかにされない。ただ初老の男の切ない夢だけが一瞬輝く。
「スーツケース」も初老の男の冷え冷えとした孤独が心に沁み込む。妻が入院する。脳に動脈瘤が出来た。もう助からないかもしれない。男はスーツケースに、妻が入院中に必要なものを入れる。それを持って町を彷徨する。
社会の隈にいる男たちの悲しみが胸を衝く。彼らの悲しみを慰めるのは悲しみしかない。
繊細で、簡潔な訳文はほとんど訳文と感じさせない。ベルンハルト・シュリンク『朗読者』の翻訳者ならではの名訳。
(週刊ポスト2016年10.7号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
【2022年「中国」を知るための1冊】橋爪大三郎、中田 考『中国共産党帝国とウイグル』/ウ・・・
中国共産党はなぜ自国民監視を徹底し、香港・台湾支配をめざすのか? 北京オリンピックの開催を控え、その動向がますます注目される隣国、中国を多角的に知るためのスペシャル書評! その第1作目は、作家・嵐山光三郎が解説します。
-
今日の一冊
小川糸著『ツバキ文具店』で描かれる、心温まる鎌倉の日常。
ベストセラー『食堂かたつむり』の著者、小川糸が描く、鎌倉を舞台にした心温まる物語。そのストーリーと創作の背景を、著者にインタビュー!
-
今日の一冊
評論家・西部 邁の最期の著作『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』
保守派の評論家である西部邁氏が、保守の真髄を語る一冊。2018年1月に多摩川で自死を遂げ、最期の書となりました。著者が亡くなる直前の2017年12月に書かれた書評を紹介します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】永井紗耶子『木挽町のあだ討ち』/目撃者たちが語る雪夜の惨劇――驚愕必至・・・
〈あれは忘れもしない二年前の睦月の晦日。雪の降る晩のことでございます〉――文化12年1月、伊納清左衛門が一子、菊之助が木挽町森田座の裏で父の仇と相対し、その首を刎ねた事件。目撃者たちの言葉に潜む、驚愕の真相とは? 注目の時代小説の著者にインタビューしました!
-
今日の一冊
川崎賢子『もう一人の彼女 李香蘭/山口淑子/シャーリー・ヤマグチ』/まるでスパイ映画のヒロ・・・
戦後には自民党の国会議員にまでなった、インテリ女優の「山口淑子」は、いくつもの名前を持ち、国境を超えて活躍した美女でした。まるでスパイ映画のヒロインのような、その生涯を調べ上げた意欲作を紹介します。
-
今日の一冊
【激動の2022年を振り返る「この1冊」】杉山大志 編著、川口マーン惠美、掛谷英紀、有馬純・・・
「太陽光発電はクリーンなエネルギーで発電コストも安い」というイメージの陰に隠された、エコビジネスの真実とは? ノンフィクション作家・岩瀬達哉が解説する、スペシャル書評第3冊目!
-
今日の一冊
荒木一郎著『まわり舞台の上で 荒木一郎』が記す活動の軌跡。平山周吉が解説!
多才な顔を持つ、荒木一郎。歌手、俳優、作曲家、小説家、プロデューサーなど、その活動は幅広く、破天荒なもの。活動の軌跡と、人生の明暗を語る一冊を、平山周吉が解説します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】新名 智『あさとほ』/その物語を読んだ者は、消える――新進気鋭の長編ホ・・・
作者も所在も謎だらけの散佚物語「あさとほ」について、調べた人は消える――。最後まで読み切った読者は、世界の仕組みそのものがずれてしまったような、おかしなグラつきを覚えること必至の長編小説!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】銀色夏生『こういう旅はもう二度としないだろう』
詩人・銀色夏生が、一般の団体ツアーで旅に出た! 赤の他人と一緒に回り、何かと煩わしいことの多い道程を、詩人ならではの感性で写真と共に綴る旅行記。
-
今日の一冊
黄未来『TikTok 最強のSNSは中国から生まれる』/ミドル以上の世代が知るべき“いまど・・・
「機械にすすめられたものしか見ない」「個人情報は明け渡す」等々……。これまでの日本社会ではネガティブにとらえられるようなことが、ハイテク化の常識とされている中国の「いま」がわかる一冊!
-
今日の一冊
一族と関係者だけが権力を牛耳っている!?『私物化される国家 支配と服従の日本政治』
安倍政権に焦点をあて、その本質を解き明かします。日本はどこへ向かっていくのか? 「自由が危うくなる前に」という著者の切迫感が、行間から伝わってくる一冊。
-
今日の一冊
西村直樹著『海外富裕層がやっている“究極”の資産防衛アンティークコイン投資入門』が説く資産・・・
実は富裕層の間でとても人気の、ヨーロッパコインの魅力とその投資価値に迫る一冊。誕生の経緯や価値上昇の経緯を歴史と絡めながら紐解いていきます。経済アナリストの森永卓郎が解説。
-
今日の一冊
メルトダウンの真相を追う緊迫の近未来小説『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』
台北の第四原発で起こった、突然のメルトダウン。生き残ったエンジニアは、失われた記憶の中に事故の真実があることに気づいて……。呉濁流文学賞と華文SF星雲賞を受賞した、台湾の傑作長編。
-
今日の一冊
『1998年の宇多田ヒカル』
-
今日の一冊
【著者インタビュー】青山文平『やっと訪れた春に』/男たちの生き様を鮮やかに描く、先の読めな・・・
橋倉藩では岩杉本家と田島岩杉家が交互に藩主を輩出し、両派の均衡を2人の能吏を置くことで保ってきた。だが状況が変わり、〈いまならば、近習目付は一人でもなんとかなる〉と橋倉藩士・長沢圭史が隠居した矢先、事件は起きる――。著者自身も真犯人を「書くまで知らなかった」と語る、先の展開が読めない時代小説についてインタビュー!
-
今日の一冊
竹内康浩、朴舜起『謎ときサリンジャー 「自殺」したのは誰なのか』/そこに待つのは、生と死の・・・
サリンジャーの名作短編「バナナフィッシュにうってつけの日」のラストで死んだのは、本当に三十一歳の男「シーモア・グラス」だったのか? 読者が見過ごしていた疑問を次々と突きつけ、作者の他作品とも緻密に関連づけて読み解く評論!
-
今日の一冊
木村 知『病気は社会が引き起こす インフルエンザ大流行のワケ』/社会的視点から日本の医療問・・・
カゼ程度では会社を休めないという患者に乞われるがまま、医者が効果ゼロの抗生物質を処方してしまったり、病気は自業自得といって貧しい人たちを追い詰め、結果的に病気になる人を大量に増やしてしまう――現在の日本の医療をめぐる緒問題を、現役医師が鋭く語った一冊。
-
今日の一冊
『タモリと戦後ニッポン』
-
今日の一冊
歩くことがもたらすもの『ウォークス 歩くことの精神史』
ブローニュの森を散歩しながら『人間不平等起源論』を書きあげたルソーのように、人は歩くことで思考し、アイデアを創造してきました。哲学や人類学、宗教など、多面的に歩くことの意義を探ります。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】東海林さだお『ひとりメシの極意』
よくあるグルメ本と一線を画した、孤独とも孤高とも全く違うひとりメシの世界とは……。漫画家で名エッセイストの東海林さだお氏に、最新のエッセイ集について語っていただきました!