山内志朗著『小さな倫理学入門』には豊かな心理学の世界が詰まっている
「弱きもののための倫理学」入門。身近な物事を通じて、人間の深部に目を向けた、小さくて深い倫理の話。香山リカが解説します。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
香山リカ【精神科医】
小さな倫理学入門
山内志朗著
慶應義塾大学三田哲学会叢書
700円+税
装丁/耳塚有里
人生について考えさせられるネタの豊かすぎる泉
私にとって本書は今年ナンバーワンの本。でも「倫理学の本」だ。そう聞くだけで「不倫」をしている人はドキッとするかもしれない。
大丈夫、安心してよい。「不倫は倫理学で責められたりはしていません」とある。性的欲望は古代のキリスト教神学では「原罪」と見なされて糾弾されたが、著者は「罪を担い、罪を意識するものしか倫理的になりえないし、救済の対象にはならない」と言う。欲望からも罪悪からも無縁な人には、そもそも倫理学は必要ないのだ。
それを知って「なんだ、不倫をしてるオレこそが倫理的なのか」と開き直ってはいけない。100ページあまりの平易な言葉で書かれた「弱き者のための倫理学」である本書は、人生について考えさせられるネタの豊かすぎる泉なのである。「心も、『私』というのも、肩こりのようなものなのです」「人間は泣きながら生まれ、泣きながら生き、泣きながら死んでいくしかないのです」といった気のきいたフレーズに「ふんふん、これは次のデートで使えるぞ」などと思いつつ読み進めるうちに、さりげなく示されるアリストテレス、アウグスティヌスからカント、ロールズといった哲学者、神学者などの名前に何度か触れ、各項目にそっと添えられた魅力的な文献にも目を奪われることになるだろう。
そして、20個の項目も終わりに近づき「人生に目的はない」「〈私〉とは何か」を読む頃には、あなたは自分の心の中に「小さい火花」が灯っていることに気づくはずだ。すると、自分の人生の残りはあと何年かはわからないが、ぼんやり生きていたり目の前の快楽ばかり追求していたりすることが何となくもったいなくなってきて、自分や他者に向けるまなざしがこれまでとはちょっと違ってくるのではないか。それこそが「小さな倫理学」だ。
もし私に子どもがいたら、迷わず本書を読ませただろう。その子が学生なら、「文献リストの本も全部読みなさい」と言ったと思う。さあ、あなたもぜひ「小さくて豊かな倫理学」の世界へ!
(週刊ポスト2015年11/7日・12/4日号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
エドモン・ド・ゴンクール 著、隠岐由紀子 訳『北斎 十八世紀の日本美術』/非凡な文章力で葛・・・
19世紀フランスの文芸家・ゴンクールが、日本の巨匠・葛飾北斎の芸術性をその文章力で余すことなく再現した書。絵がなくても、天才画家の凄さと魅力を伝える手腕が見事です。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】佐久間文子『ツボちゃんの話』/急逝した坪内祐三氏の比類なき業績や彼との・・・
2020年の1月13日にこの世を去った評論家・坪内祐三氏の妻であり、自身も文芸ジャーナリストとして活躍する著者が、彼と共に過ごした生活を振り返る一冊。
-
今日の一冊
【激動の2022年を振り返る「この1冊」】笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』/いまだ大きな謎が・・・
〝天下分け目の戦い〟関ヶ原合戦について、いまもなお意見が分かれる点を整理し、その真相の解明を試みる好著。富士通フューチャースタディーズ・センター特別顧問の山内昌之が解説します。
-
今日の一冊
日本裁判官ネットワーク『裁判官が答える 裁判のギモン』/痴漢をでっちあげられたら、逃げるべ・・・
電車で痴漢冤罪の濡れ衣を着せられてしまったら、不倫で夫婦関係が壊れてしまったら、遺産相続の争いに巻き込まれてしまったら……。はじめて経験する事態でも、まごつかないための法律知識が満載!
-
今日の一冊
『労働法改革は現場に学べ!これからの雇用・労働法制』
-
今日の一冊
朱 宇正『小津映画の日常 戦争をまたぐ歴史のなかで』/世界の名だたる映画監督たちが師とあお・・・
小津作品で描かれる中流家庭の「日常」には世界共通の何かがあると思い、同時に外国人の書いた小津論には「西洋から見た非西洋の理解」という限界があると見切った韓国人研究者・朱宇正による力作。
-
今日の一冊
小村明子『日本のイスラーム 歴史・宗教・文化を読み解く』/2010年代から取り沙汰されだし・・・
ムスリムの食習慣になじむとされた食材・料理「ハラール」。日本でも2010年代から注目されており、イスラームは私たちの身近な存在となりつつあります。日本で暮らすムスリムについて、もっと知りたい人におすすめの一冊。
-
今日の一冊
梅沢正邦『神さまとぼく 山下俊彦伝』/パナソニックの企業体質を変えた異色の経営者
「工業学校卒のヒラ取」から、日本最大の家電メーカーである松下電器(現パナソニック)の社長に抜擢された山下俊彦は、自らを見出した「松下家」と対決し、新しい松下電器を創りあげた異色の経営者でした。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】直島翔『転がる検事に苔むさず』/主役は苦労人の窓際検事! 第3回警察小・・・
ふだんは窃盗事件や器物損壊など、町の小さな事件ばかりを担当している検事が主人公のミステリー小説。謎解きの面白さはもちろんのこと、組織小説として読んでも引き込まれる一冊です。
-
今日の一冊
【SPECIAL著者インタビュー】桐野夏生『日没』/普通の人々が弾圧に加担していくのが私は・・・
それは「表現の自由」の近未来を描いた小説のはずだった。しかし、連載開始から4年を経て、このたび刊行された桐野夏生さんの『日没』は、日本のいま、2020年の現実を鋭く抉り出す。そして私たちに問いかける。「これが虚構だと言い切れますか?」と。
-
今日の一冊
筒井ともみ『もういちど、あなたと食べたい』/加藤治子、松田優作、深作欣二……いまは亡き人の・・・
加藤治子と食べた蕎麦がき、松田優作と共にしたにぎり寿司、深作欣二が好きだったキムチ鍋などなど、次々においしそうな食と思い出される故人のことが語られるエッセイ。評論家・川本三郎が解説します。
-
今日の一冊
ジャズを読み解く『〈ポスト・ジャズからの視点〉I リマリックのブラッド・メルドー』
現代ジャズを牽引する気鋭のピアニスト、ブラッド・メルドーの軌跡を軸に、ジャズの世界を著者が的確な言葉で説明していきます。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】柚月裕子『凶犬の眼』
映画『仁義なき戦い』や実際の広島抗争をモチーフにし、役所広司主演で映画化もされた話題作『孤狼の血』シリーズの第2弾! 著者に、作品に込めた想いを訊きました。
-
今日の一冊
川村元気著『四月になれば彼女は』が描く、失った恋に翻弄される12ヶ月。著者にインタビュー!
胸をえぐられるような切なさが溢れだす長編小説。『世界から猫が消えたなら』『億男』の著者、2年ぶりの最新刊。その創作の背景を、著者にインタビュー!
-
今日の一冊
「社会」のありようを問いかける『ジェンダー写真論 1991-2017』
「ジェンダー」と「セクシュアリティ」の視点から写真表現の歴史を読み解いた、女性写真家による一冊。私たちが見過ごしている「社会」のありように、目を開かせてくれます。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】南 伸坊『私のイラストレーション史』/水木しげる、和田誠……1960~・・・
伝説の漫画雑誌『ガロ』編集者であり、イラストレーターでもある著者が目撃してきた、1960~70年代の才能あふれるイラストレーターや漫画家、デザイナーたちについて綴った自伝的エッセイ。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】三國万里子『編めば編むほどわたしはわたしになっていった』/ハンドメイド・・・
大人気のニットデザイナーが初めて上梓した話題のエッセイ集についてインタビュー!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】浅倉秋成『俺ではない炎上』/50代半ばのSNS弱者が巻き込まれた理不尽・・・
ある日突然、SNSに自分のなりすましアカウントが現われ、身に覚えのない「若い女性の殺害」を写真付きで告白されてしまったら……。明日は我が身かもしれない、現代的な巻き込まれ型炎上劇!
-
今日の一冊
忘れてはいけない「平成」の記億(1)/宮内庁編修『昭和天皇実録 全十八巻』
平成日本に生きた者として、忘れてはならない出来事を振り返る特別企画。
武蔵野大学特任教授の山内昌之が「いちばん平成の時代らしい書物」として挙げるのは、『昭和天皇実録』です。宮内庁により、平成2年から平成26年まで24年間をかけて編修された実録には、日本の政治や社会、文化までもが記述されています。 -
今日の一冊
夏川草介『本を守ろうとする猫の話』は感動のファンタジー長編!著者にインタビュー!
ベストセラー『神様のカルテ』の著者初のファンタジー長編。夏木林太郎は、祖父を突然亡くす。祖父が営んでいた古書店『夏木書店』を閉めて叔母に引き取られることになった林太郎の前に、人間の言葉を話すトラネコが現れ……。夏川版『銀河鉄道の夜』ともいえる社会派ファンタジーの、創作背景を著者にインタビュー!