まるで幽霊譚のような面白さ『老愛小説』
昭和十一年生まれの、フランス文学者である著者が紡ぐ小説。美しくも幻のように実体のない女性たちとの関係を描き、恋愛小説でありながら、幽艶な奇譚のような面白さがあります。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
川本三郎【評論家】
老愛小説
古屋健三 著
論創社
2200円+税
装丁/奥定泰之
美しくも実体のない女性たちとの幽艶な〝現代奇譚集〟
恋愛なんて青臭い若者に任せればいい。老年になれば恋愛は遠い日の幻想でしかなくなる。
著者は昭和十一年生まれのフランス文学者。荷風好きで『永井荷風、冬との出会い』(朝日新聞社)という著書もある。
大学を定年退職したら小説を書きたいと思っていた。それが成った。大学の先生の小説だから生真面目な教養小説かと思いきや三篇ともに学者を主人公に、関わった女性たちとの性愛を描いていて意表を突く。
といってもよくある愛欲小説ではないし、生ま生ましい恋愛小説でもない。辿ってきた女性たちとの関係を、老いの現在の視点で見ている醒めた目がある。世捨人の諦念がどの作品にも流れている。
第一作「虹の記憶」は、フランス留学から戻った主人公が奈良の寺でたまたま会った女性と関係を持ち、そのまま三浦半島の山小屋のような一軒家で暮し始める。
女性の正体は分からない。ある日、突然、現われた
まるで実体のない女性はどこか「雨月物語」の幻の女を思わせ、現代の幽艷な奇譚になっている。
第二作「老愛小説」は六十歳になろうとする学者が三十年以上連れ添った妻のことを語る。二人のあいだに子供はいない。
長く連れ添った筈なのに夫は妻という女がよく理解出来ない。京都の古い旅館の娘。十代の頃に知り合い、東京に連れて来た。築地の旅館の女将として働いた。
美しいが、彼女もまた「虹の記憶」の幻の女と同じように実体に乏しい。いってみれば幽霊。そもそも主人公自身が、学者でありながら大学からも世間からも遠い世外の人。恋愛小説の形を取りながら幽霊譚の面白さがある。
第三作「仮の宿」は正岡子規が暮した東京の下町、根岸あたりを舞台に学者と教え子の女学生、さらに幼なじみの芸者との関係が描かれるが、ここでも恋愛は現実のものというより、一篇の夢のようだ。老年ならではの成果だろう。
(週刊ポスト 2018年2.2号より)

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