〝桃源郷〟への思いを描く『魔法にかかった男』
イタリア文学界の奇才・ブッツァーティの短編集。時間の不可逆性と無常には勝てないという著者の強迫観念が生み出した〝桃源郷〟への思いが描かれています。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
鴻巣友季子【翻訳家】
魔法にかかった男
ディーノ・ブッツァーティ 著
長野 徹 訳
東宣出版 2200円+税
装丁/塙浩孝(ハナワアンドサンズ)
無常には勝てないという強迫観念が生んだ〝桃源郷〟
ブッツァーティを初めて知ったのは、堀江敏幸の小説『河岸忘日抄』だった。主人公がこの作家の短編「K」(別題「コロンブレ」)を読む。ステファノという男が、死を司る海の化物「K」に追われていると思いこみ一生を過ごすと……という物語だ。明確な理由もなく漠とした予感に憑かれ、「あれがそろそろ来る」と怯え続ける心境は、さまざまな比喩として読みうるだろう。
作者の文章には、緻密に編みこまれた寓意と暗喩の網の目がある。本短編集には、ふと誰かを見かけることに始まる編がいくつかあり、私はとても惹かれた。「K」と似た主題をもつのは「個人的な付き添い」である。少年時の語り手は城壁の外に、ステッキを持って、自分を待っている男がいるのを見かける。見覚えがあるようだが、何者なのかわからない。その後もときおり男は現れ、やがて語り手が行く先々についてまわるようになり、いつしか語り手は男の出現を待ちわびるようになる。ステッキの男は語り手の分身なのだろうか?
あるいは、街で見知らぬ男が突然、やあ、中学の同窓生だった〇〇だよと話しかけてくる「家の中の蛆虫」。男は次第に語り手の家庭に居着き、語り手の弱みにつけこんで家も事業も……。闖入と乗っ取りのモチーフが安部公房の戯曲「友達」や、藤子不二雄Ⓐの漫画「ヤドカリ一家」、もしくは現実の「尼崎連続殺人事件」なども思わせて、かなり怖い。
「エレブス自動車整備工場」は、悪魔に魂を売る「ファウスト」の主題を変奏している。あるいは、「チェーヴェレ」は、七年ごとに村に現れる、死者をいざなう黒い何者かと、その舟へ痛切に惹かれる男が登場する。「七」は、「七階」「七人の使者」など、ブッツァーティには特別(不吉)な数字だろうか。本編や表題作には、時間の不可逆性と無常には何人も勝てないという作者の強迫観念が生み出した“桃源郷”への思いが描かれる。
そろそろ来る何かが気になるあなたのための一冊です。
(週刊ポスト 2018年4.27号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
今尾恵介著『地図マニア 空想の旅』で地図を読むことの楽しさを知る。関川夏央が解説!
これまで行くことのできなかった場所への旅を、地図を読むことで実現。地図研究家・今尾恵介の集大成である一冊を、関川夏央が解説します。
-
今日の一冊
『戦争と読書 水木しげる出征前手記』
-
今日の一冊
金 誠『孫基禎――帝国日本の朝鮮人メダリスト』/日本と朝鮮半島の複雑な関係を、冷静な筆致で・・・
1936年のベルリンオリンピックで、マラソンの金・銅メダルを獲得した日本代表は、ともに朝鮮半島出身の朝鮮人でした。日本と朝鮮半島の複雑に絡み合った近現代の関係を明らかにする五輪史!
-
今日の一冊
群ようこ『この先には、何がある?』/超売れっ子作家になっても「普通の人」
バブル時代に大ブレイクした作家・群ようこ氏。どんどん貯まる通帳のお金に比例して、生活も一変すると思いきや、豪邸を建ててもそこに住まずに、「普通の人」をつらぬいていたそうです。その作家人生を回顧する、自伝エッセイ!
-
今日の一冊
『慈雨』(柚月裕子著)は慟哭の長編ミステリ-。著者にインタビュー!
かつての部下を通じて、ある事件の捜査に関わり始めた主人公は、消せない過去と向き合い始める……。様々な思いの狭間で葛藤する元警察官が真実を追う、日本推理作家協会賞受賞作家渾身の長編ミステリー。その創作の背景を、著者にインタビュー!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】伊吹有喜『雲を紡ぐ』/布工房を舞台に家族の衝突や葛藤を描いた、心あたた・・・
いじめで高校に通えなくなった娘、無口な父親、激しく非難してくる母親……3人の衝突や葛藤、隠された思いを、岩手県盛岡市の布工房を舞台に丁寧に描いた家族小説。
-
今日の一冊
嶋田直哉『荷風と玉の井「ぬけられます」の修辞学』/永井荷風好きなら必読!
生誕百四十年、没後六十年を超えてもなお、根強い人気を誇る永井荷風作品。なかでも有名な『濹東綺譚』について新しい論を提示する、荷風好きには必読の一冊を紹介します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】吉村萬壱『回遊人』
お世辞にも売れっ子とは言えない中年作家が、妻子を残しプチ家出した先で拾った錠剤。死んでもかまわない、とそれを飲むと、10年前にタイムリープしてしまう。何度生き直しても、うまくいかない男の転落劇に、著者が込めたメッセージとは?
-
今日の一冊
李栄薫『反日種族主義 日韓危機の根源』/韓国人が語る歴史は、信じたい「物語」にすぎない
来日観光客の激減、日本ビールの輸入のゼロ化など、近年、ますます深まる日韓の溝。この「日韓危機」の原因は、どこにあるのか? 韓国で出版され、大きな話題を呼んだ一冊。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】又吉直樹『人間』/喜劇にも悲劇にもなれる“状態”を書く
何者かになろうと、もがき続けた青春の果てに待っていたものは……。自身初となる長編小説『人間』について、又吉直樹氏にインタビュー!
-
今日の一冊
山口謠司著の『日本語を作った男上田万年とその時代』が描いた国語の確立。
「坂の上の雲」言語編とも言える、言語という側面から日本の近代化の歴史を描いた一作を、ノンフィクションライター鈴木洋史が解説します。
-
今日の一冊
ミヒャエル・H・カーター『SS先史遺産研究所アーネンエルベ ナチスのアーリア帝国構想と狂気・・・
伝奇小説やオカルト雑誌であまりにも有名な、ナチス・ドイツの謎の組織「アーネンエルベ」の全貌を明らかにする一冊!
-
今日の一冊
定年後、どう生きればいい?『定年入門 イキイキしなくちゃダメですか』
人気ノンフィクション作家が、定年した人々に取材して執筆。定年後は「きょういく」と「きょうよう」が大切と説きますが、その意味は……。
-
今日の一冊
フランス文学者が描く絶品の「肖像」『こないだ』
フランス文学のジャンル「肖像(ポルトレ)」の名手が、過去に同じ時間を過ごした人びとについて書き綴った名作。評論家の坪内祐三が解説します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】鳥飼茜『漫画みたいな恋ください』
男女の性差から生じる衝突や感情を生々しく表現する、人気漫画家・鳥飼茜さんの日記が書籍化。同じく人気漫画家の浅野いにおさんとの恋愛をはじめ、元夫との間にいる息子や仕事のことなど、日常の葛藤が濃密に綴られています。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】辻󠄀田真佐憲『空気の検閲 大日本帝国の表現規制』
内務省が具体的な検閲事例を記した内部資料『出版警察報』等を元に、「検問」の業務の実態を丹念に検証した労作。検閲の歴史を開放したかったと語る、著者にインタビュー!
-
今日の一冊
川上弘美『わたしの好きな季語』/季語のとりこになっていく日々のエピソード
「妙な言葉のコレクション」が趣味だった著者が、俳句をつくるようになり、季語のとりことなっていく日々を綴るエッセイ。これから俳句をはじめたい人におすすめの一冊です。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】山本美希『かしこくて勇気ある子ども』/子どもを持つという選択の前で立ち・・・
生まれてくる子供が賢くて勇気ある子に育ってほしいと、薔薇色の未来を思い描いていた夫婦。ある日、パキスタンの賢くて勇気ある子供が危険な目にあった事件を知り、妻は不安を覚えますが……。意外な展開が待つ長編マンガ!
-
今日の一冊
【2020年の潮流を予感させる本(3)】磯田憲一『遥かなる希望の島「試される大地」へのラブ・・・
新時代を捉える【2020年の潮流を予感させる本】、第3作目は、元北海道副知事が町を元気にする前向きな知恵と工夫を綴ったエッセイ集。評論家の川本三郎が解説します。
-
今日の一冊
大岡信著『自選 大岡信詩集』が、現代詩の新たな扉を開く!嵐山光三郎が解説!
日本の古典とシュルレアリスム研究に新しい光を当て、新しいイメージの日本語で、美しい詩を織りなす、詩人大岡信。日本語の現代詩に新たな展望を切り拓いた作品の数々を、自選によって集成します。三浦雅士でなければ書けない解説は必見。