全盲作家による小品文学『治療院の客』
持病の網膜色素変性症が進行し、五十歳で全盲にいたった著者による短編集。フツウの人の運命を切り取った作品は、短いながら読みごたえ十分です。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
池内 紀【ドイツ文学者・エッセイスト】
治療院の客
歩 青至 著
無明舎出版
1800円+税
ひと息に読める小品に切り取られたフツウの人の運命
大半はごく短い。原稿枚数でいうと五枚前後。いわば小品文学だが、だからといって語られたものが小さいとはかぎらない。
「和歌菜には突拍子もない癖がある」
「庄太郎は八十九歳になる」
「本間朋実が肺腺癌を宣告されたのは六十八歳のことである」
こんな書き出し。人物はごくフツウの人。名前を与えられてフツウの人生を生きている。あるいは、うき世のつとめを、おおかた果たし終えた。
「爪を切る」「鍋島教頭先生」「美しい日本」「黒い眼鏡の男」「ごめんね」「左ギッチョ」……一応のタイトルである。なんでもない石ころが幼いころの宝ものであったように、少年・少女期のちょっとした記憶が、いつまでものこっている。何十年かのちのちょっとしたきっかけで、まざまざとよみがえる。闇夜に一瞬、ライトをあてたぐあいだ。ライトが消えると、闇の深さがちがってくる。
ペンネーム歩青至は本名武田金三郎、一九四三年、秋田県生まれ。高校を出て営林署に勤めていたが、持病の網膜色素変性症が進行して退職。遺伝性のこの病は、とどめる手だてがない。盲学校で学んで鍼あんまマッサージ治療院を開業。全盲にいたったのは五十歳のころという。高校のときから創作が好きで、同じペンネームで長篇『少年』(無明舎出版)がある。私は先にこちらで知った。
ごく短い小品なのに、そしてほんのひと息で読めるのに、短いとも、たあいないとも思わないのはどうしてだろう? フツウの人の運命が切り取ってあるからだ。一生のかかる運命に関するかぎり、フツウもフツウでないもないのである。そして運命には必ず夢の根っこがひそんでいるもので、それはどこか生の秘密とつながっている。フツウの人に生の秘密などないと誰に言えようか。
ひっそりした「治療院」から、魔法の眼鏡で見てとったような人間模様が、強烈な表現力をそなえた秋田弁をまじえて、淡々とつづられている。
(週刊ポスト 2018年6.1号より)

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