文学のなかの「音」を楽しむ『世界でただ一つの読書』
四歳のときに視力を失い、音に敏感になった著者が、瑞々しい感性で綴った読書エッセイ。これを読めば、夏目漱石の「坊っちゃん」など、文学作品のなかにどれだけ多様な音が表現されていたかに気づくはず。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
川本三郎【評論家】
世界でただ一つの読書
三宮麻由子 著
集英社文庫
640円+税
装丁/坂川栄治+鳴田小夜子(坂川事務所)
装画/ささめやゆき
視力を失った作家に聞こえる文学作品の中の様々な「音」
文学作品のなかにはこんなにも多様な音が表現されていたか。まったく気づかなかった。
著者は四歳の時に視力を失った。自身の言葉で言えば「シーンレス」。だから音に敏感になる。
漱石の「坊っちゃん」は音にあふれた小説だという指摘がまず新鮮。汽船が港に着いた時の音。宿屋の騒々しい笑い声。生徒たちの大声。さらには蚊の飛ぶ音。赴任地になじまなかった主人公の違和感が音で表現される。
騒音のなかには東京で聞いた懐しい音もある。三味線や太鼓の音。坊っちゃんが最後に東京に戻るのはこの懐しい音に導かれたからだという。これまで誰も言わなかったことではないか。
吉本ばななの「TSUGUMI」は海の小説だとしたあと、海の音は太平洋、日本海など海域によって違うと言う。これにも驚く。
小川洋子「博士の愛した数式」、池澤夏樹「南の島のティオ」など現代の小説だけではない。「アラビアンナイト」や「モンテーニュ旅日記」、スウェン・ヘディンの「さまよえる湖」まで論じる。
「アラビアンナイト」は約十年かけて点字で読了したという。何より面白かったから。どこがか。御馳走の描写が豊かだし、音楽の調べが聴こえてくるから。
著者が文学作品を本当に楽しんで読んでいる素直な気持が伝わってくる。分析や裁断とは無縁。自身の体験と重ね合わせながら、作品のいいところを静かに味わう。
蕪村の牡丹の句に美しさを感じることが出来るようになったのは、自分で牡丹を苗から育てて咲かせたから。枝から芽が出て葉になり蕾になりやがて大輪の花を咲かせる。その過程を知ることで「美しい」とは何かの理解に近づいた。
著者はピアノを弾く。だからますます音に鋭敏になる。映画にもなったバリッコの「海の上のピアニスト」論は著者のピアノへの愛情にあふれている。ピアノだけではない。英語もフランス語も好き。「好き」で世界と関わっている。
宮澤賢治の作品に教会の鐘の音を聴くくだりは清澄そのもの。
(週刊ポスト 2018年9.21/28号より)

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