法心理学者による慧眼の書『虚偽自白を読み解く』
やってもいない犯行を自白した冤罪被害者たちの、自白調書や取調室での録音記録を精緻に分析。「無実の人がどのような心理過程を経て虚偽自白に陥る」かを、丁寧に解説した一冊。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
岩瀬達哉【ノンフィクション作家】
虚偽自白を読み解く
浜田寿美男著
岩波新書
880円+税
捜査員と無実の被疑者をからめ捕る「怖れと保身」の仕組み
「四〇年にわたって虚偽自白の問題と格闘」してきた、法心理学者の慧眼の書である。
有罪となれば死刑や無期懲役になりかねない重大事件で、やってもいない犯行を自白した冤罪被害者たちの、膨大な自白調書や取調室での録音記録を精緻に分析。「無実の人がどのような心理過程を経て虚偽自白に陥る」かを、丁寧に解説してくれる。
「こればかりは体験した者にしかわからない」が、「『お前が犯人だ』と言ってけっして譲らない取調官の『確信』の壁」は、「どれほど意思堅固な人でも、やがては虚偽の自白」に突き落とす。いっさいの抗弁を跳ね返し、無力感で人を押しつぶしてしまうからだ。
捜査員の「証拠なき確信」は、「有罪方向へと導く強力な磁場」を生み出すが、当の捜査員たちをもからめ捕っていく。「捜査チームが一丸となって被疑者の有罪を固める方向に動いているとき」、ひとりの捜査員が、この人は無実ではないかと言えば、事件を潰してしまいかねない。その怖れと保身が、「不都合な可能性には目をつむるような心理」へと導くからだ。
120年前、ベルリンで足し算のできる「ハンス」という馬がいたという。「観客の一人がハンスに『一二+九』という問題を出す」と、ハンスは蹄を21回叩いてやめた。計算ができたわけではなく、観客の微妙な反応を見て、蹄を叩くのをやめていただけだった。
「虚偽自白」した人が、現場検証などで、見たこともない凶器や衣類を捨てた位置を正しく指摘するのも、この「賢いハンス」効果による。捜査員たちは、「正解とは違うところを指示しそうになれば、思わず『そうかな?』という表情になったり、えっと驚く仕草を見せたり、声が出たりする」。その微妙な反応が、「当てずっぽう」で、正しい位置を当てさせるのである。
不幸なことは、裁判官に「供述心理鑑定」の素養がなく、自白調書などに潜む不自然さを見抜けないことだ。罪なき人を罰するこのような仕組みへの認識を深め、冤罪を防ぐ一つの礎石としよう。
(週刊ポスト 2018年10.26号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
評論家・西部 邁の最期の著作『保守の真髄 老酔狂で語る文明の紊乱』
保守派の評論家である西部邁氏が、保守の真髄を語る一冊。2018年1月に多摩川で自死を遂げ、最期の書となりました。著者が亡くなる直前の2017年12月に書かれた書評を紹介します。
-
今日の一冊
岡部 伸『イギリスの失敗 「合意なき離脱」のリスク』/EU離脱問題の背景と要因を分析する
2016年の国民投票以来、社会分裂が進む英国で、いったい何が起こっていたのか? 混乱を増したEU離脱問題の背景と要因を分析した一冊。
-
今日の一冊
山中浩之『マツダ 心を燃やす逆転の経営』/見事な経営革命が可能にした、どん底からの復活劇!
1980年代から1990年代にかけて、経営危機に陥り、米国フォード社の傘下に入らざるを得なかったマツダ。しかし金井元会長は決して諦めず……。どん底からの復活劇を語る一冊!
-
今日の一冊
山極寿一、小川洋子『ゴリラの森、言葉の海』/霊長類学者と小説家が、ゴリラを熱く語る!
かつて熱帯雨林のなかで一緒に雨宿りをしたマウンテンゴリラが、二十六年ぶりに再会した著者を覚えていたこと、子を殺された母親ゴリラが殺したオスゴリラの子供を産むこと、そしてゴリラの同性愛のこと……。ゴリラをめぐって熱く語る、エキサイティングな対談集!
-
今日の一冊
真栄平房昭『旅する琉球・沖縄史』/外交のあり方を考えさせる歴史コラム・時評集
琉球大学教授による歴史コラム・時評を集めた一冊。おだやかな文体に導かれて読み進むうちに、海賊に脅かされながらも海を渡った琉球人留学生の体験や、江戸へ旅した琉球使節の姿があらわれてきます。
-
今日の一冊
宇野重規『民主主義とは何か』/危機に直面する「議会制中心の民主主義」の現状を明らかに
国民の代表として選出された議員が、国会で「疑問に思える行動すべてについて十分な説明」を求められないのは、どこに原因があるのでしょうか。2500年以上にわたる民主主義の歴史と問題点を、鋭く分析する一冊を紹介します。
-
今日の一冊
ベーシックインカムを本格的に読み解く/エノ・シュミット・山森亮・堅田香緒里・山口純 著『お・・・
新しいタイプの社会保障制度として注目されている「ベーシックインカム」は、私たちの社会に何をもたらすのでしょうか? 未来への指針となる一冊を紹介!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】野原広子『消えたママ友』/いざというとき、逃げ出す勇気を持ってほしい
キラキラ輝いて見えたママ友が、ある日突然姿を消した――。胸に突き刺さるママたちの本音が満載のミステリー仕立てのコミック。たとえどんな問題を抱えていても、事件を起こしたりする前に、何もかも捨てて逃げてほしいと著者は語ります。
-
今日の一冊
旧大日本帝国は、なぜ開戦したのか?『経済学者たちの日米開戦――秋丸機関「幻の報告書」の謎を・・・
日本の国力は、とうていアメリカにはおよばない。経済学者たちも、軍も、それを知りながら、なぜ旧大日本帝国は開戦へと突き進んでいったのか? その謎に迫る刺激的な一冊を紹介します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】宇佐美まこと『黒鳥の湖』/始点と結末の落差に驚く! 読み手の暗部までも・・・
若い女性を拉致し、衣服や体の一部を家族に送り付けた上で殺す連続殺人鬼の恐怖と、一見無関係に見える不動産会社社長の幸福な日常が交差する――。次第に明らかになる人々の過去や闇や傷に、心がざわつかずにはいられないミステリー小説。
-
今日の一冊
吉田伸之『シリーズ三都 江戸巻』/さまざまな角度から江戸の発展を探る
今日まで江戸・東京の繁栄を支え続けてきた、品川と浅草。なかでも品川は、江戸の近郊地として行楽・遊興の場となった一方で、御仕置場などの負の側面を担う境界地域でもありました。江戸という都市の発展を、さまざまな角度から探る論集!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】澤村伊智『うるはしみにくし あなたのともだち』/スクールカーストの頂点・・・
美しくて聡明で、クラスの中心的人物だった少女が、ある日唐突に自殺する――少女に何が起きたのか? 不可解な事件を追ったホラーミステリー!
-
今日の一冊
メルトダウンの真相を追う緊迫の近未来小説『グラウンド・ゼロ 台湾第四原発事故』
台北の第四原発で起こった、突然のメルトダウン。生き残ったエンジニアは、失われた記憶の中に事故の真実があることに気づいて……。呉濁流文学賞と華文SF星雲賞を受賞した、台湾の傑作長編。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】松尾清貴『ちえもん』/飢饉や疫病が相次いだ激動の時代に、今改めて光を当・・・
江戸寛政年間に、長崎沖で座礁した巨大オランダ船の引き揚げに挑んだ廻船商人を描いた本格歴史小説。重機もない時代にそれをやってのけた凄さを、ぜひ体感してほしいと著者は語ります。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】50代の恋愛と人生をリアルに描く、第161回直木賞候補作!/朝倉かすみ・・・
35年ぶりに偶然、病院の売店で再会した中学の同級生――青砥と須藤。ふたりは互いの家を行き来して親密になっていくが、やがて須藤が病魔に侵されてしまう……。50代のままならない恋愛と人生を、現代的かつリアルに描いた話題作!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】道尾秀介『スケルトン・キー』
19年前、散弾銃で撃たれた母親の胎内から取り出され、養護施設で育った男の数奇な運命を追うダーク・サスペンス。常に新しいことに挑み続ける、著者にインタビュー!
-
今日の一冊
【「2020年」が明らかにしたものとは何か】西浦 博、川端裕人『理論疫学者・西浦博の挑戦 ・・・
誰もが変化と向き合った激動の1年を振り返るスペシャル書評。第1作目は、「8割おじさん」として知られる理論疫学者・西浦博氏が、コロナ流行初期から「第一波」を乗り切るまでの体験をまとめた一冊。ノンフィクションライターの与那原恵が解説します。
-
今日の一冊
『リベラルのことは嫌いでも、リベラリズムは嫌いにならないでください 井上達夫の法哲学入門・・・
-
今日の一冊
沼野充義著『チェーホフ 七分の絶望と三分の希望』が提唱する新しい像ー川本三郎が解説!
チェーホフとは果たして何者だったのか? その知られざる素顔と文学作品の数々。それらを新たな視点で語った一冊を、評論家の川本三郎が紹介します。
-
今日の一冊
まるで幽霊譚のような面白さ『老愛小説』
昭和十一年生まれの、フランス文学者である著者が紡ぐ小説。美しくも幻のように実体のない女性たちとの関係を描き、恋愛小説でありながら、幽艶な奇譚のような面白さがあります。