ほろり、泣いたぜ『くわえ煙草とカレーライス』
昭和の喫茶店を舞台に繰り広げられる、大人の男女の日常――7つの物語を収録した、片岡義男の短編集。作家・関川夏央が解説します。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
関川夏央【作家】
くわえ煙草とカレーライス
片岡義男 著
河出書房新社 1800円+税
装丁/佐々木暁
装画/佐々木美穂
70代後半の著者に時代と文芸誌が近づいたと実感
短編集『くわえ煙草とカレーライス』の冒頭作の題名は「ほろり、泣いたぜ」という。
三十歳、この作家の最近の作品としては若い設定の男は俳優、高卒後上京して先輩のバンドに加わり、最初のライブハウスで「これは食っていけない」と思った。
バンドはキャバレー回りの、懐かしい洋楽の「カヴァー・バンド」になり変わったが、支配人のひとりに「お前ら、歌謡曲をやれ」といわれた。彼は歌謡曲を演奏し歌うのが、イヤではなかった。地方の古風なキャバレーをめぐるのも、むしろ好きだった。
バンド名は東京サエキアンズから東京ウエハラリアンズに。サエキは佐伯孝夫、「新雪」「鈴懸の径」「野球小僧」「有楽町で逢いましょう」で知られる戦中戦後の作詞家、ウエハラは上原敏、「妻恋道中」「流転」の歌手、三十五歳でニューギニアで戦死した。
日本語の歌は、自己主張、激情でごまかせない。とくに美しい戦前の歌謡曲は、「直角のところは直角のまま」歌って歌詞を粒立てないと品が落ちる。三人の三十男が即席で歌う「妻恋道中」は、書きものながらみごとな歌唱に聞こえる。登場する女性たちは、年齢にかかわらず、順子、愛子、美佐子など、「ムード歌謡」のヒロインのような命名だが、被害者ではない。過去を悔やまない。
これらの短編はみな「文藝」に載った。前作『ジャックはここで飲んでいる』の作品群は「文學界」に載った。四十年前の「マーマレードの朝」「給料日」といった傑作を私に回想させもするが、時代と文芸誌の方が、七十代後半に至った片岡義男に近づいてきたのだと実感する。
『ジャックはここで飲んでいる』のジャックはジャック・ダニエル、バーボン・ウイスキーの銘柄だが、この表題作は長谷川伸『瞼の母』のみごとな翻案で、『瞼の父』『瞼の妹』という題名でもいい。クサくないとはいわないけれど、これだけの技量で提示されると、つい「ほろり、泣いたぜ」とつぶやきたくなる。
(週刊ポスト 2018年11.30号より)

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