『江戸の糞尿学』
【書闘倶楽部 この本はココが面白い①】
評者/鈴木洋史(ノンフィクションライター)
日本が400年前に確立した
「糞尿商品」流通システム
『江戸の糞尿学』
永井義男著
作品社
本体2400円+税
永井義男(ながい・よしお)
1949年福岡県生まれ。小説家、江戸文化評論家、中国古典翻訳家。東京外国語大学卒業。著書に『図説 吉原事典』(朝日文庫)、『春画で見る江戸の性技』(日文新書)、『春画と書入れから見る吉原と江戸風俗』(学習パブリッシング)など。
本書は、多くの文献をもとに、江戸期の都市において糞尿がいかに処理されていたかを描くユニークな作品だ。
中世まで人は糞尿を川や地面に垂れ流し、自然の循環に任せていたが、都市の人口が増えると、それに伴って増えすぎた糞尿は〝厄介者〟となった。そこで、近世になると、もともと人糞を畑の下肥として使っていた都市近郊の農民が、〈都市の住民が生産する膨大な糞尿に目をつけ、汲み取って農村に運ぶ。しかも、糞尿は農民の側が金銭を支払って買い取る、あるいは農産物で物納する〉という〝糞尿商品〟の流通システムが確立された。ちなみに、牧畜が盛んなヨーロッパの場合、農村では家畜の糞を肥料に利用していたため都市の人糞を必要とせず、都市は人糞にまみれ、汚臭が酷かった。それに比べ、江戸は世界一の規模を誇りながら相対的には綺麗だった。
長屋の大家にとっては、共同便所に溜まった店子の便に対して農民が支払う汲み取り料が収入に占める割合は意外に高く、ある文書によればおよそ4分の1だ。糞尿が商品として確立されると、やがて汲み取りを専業とする農民が出現し、さらには組織的に汲み取り、輸送、販売を行う名主や豪農も現れた。糞尿産業は水路の発達した江戸の東郊、特に葛西で盛んで、糞尿を運ぶ専用の舟は「葛西舟」と呼ばれた。糞尿産業に介在する中間業者が増えるなどして糞尿の買い取り価格が上昇すると、農民が結束して勘定奉行に値下げを求めて嘆願書を出した……。
今まであまり知られてこなかったそんな面白い話が満載で、「江戸の風雅」だけでは語れない人々のリアルな生活ぶりが浮かんでくる。実に愉快な読み物だ。
(SAPIO 2016年4月号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
内田洋子著『ボローニャの吐息』はイタリアの美を語る珠玉のエッセイ。川本三郎が解説!
イタリアの日常を彩る「美を」巡る15の物語。在イタリア30年あまりの著者が描く最新のエッセイ集を、川本三郎が解説します。
-
今日の一冊
『わが心のジェニファー』
-
今日の一冊
【著者インタビュー】菊地浩平『人形メディア学講義』
人形は単なる女子供の愛玩物ではなく、あらゆる人間関係を成熟に導き、人間とは何かという大命題すら内包する普遍的なメディアだった――。早大文学学術院講師・菊池浩平氏の人気講義をまとめた初の一般書。
-
今日の一冊
『住友銀行秘史』が暴く経済事件の内幕。
戦後最大の経済事件と言われる「イトマン事件」。保身に走る上司とぶつかり、裏社会の勢力と闘ったのは、銀行を愛してやまないひとりのバンカーだった。その内幕を赤裸々に綴った手帳をここに公開。その驚愕の内容は必読!ノンフィクションライターの鈴木洋史が解説します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】山口ミルコ『似合わない服』
エース編集者として出版社で活躍し、退社直後に乳癌が発覚。仕事も毛髪も、何もかもを失いながらもがき、綴った手記の背景を著者にインタビュー。
-
今日の一冊
笠谷和比古著『徳川家康 われ一人腹を切て、万民を助くべし』が明らかにするそのリアルな人物像・・・
様々な困難を乗り越えて、ついには天下人となった家康の、戦略や思想、リアルな人物像に迫った一冊。山内昌之が解説します。
-
今日の一冊
星野保著の『菌世界紀行―誰も知らないきのこを追って』。珍しいきのこを求めて極地を旅する道中・・・
極地や寒冷地で、苛酷な環境に耐えながら、珍しいきのこを求めて調査採集に臨む菌学者たち。
菌との念願の対面は叶うのか……?冒険談を楽しみながら学べる入門書を紹介します。 -
今日の一冊
巴特尓『内モンゴル近現代史研究 覚醒・啓蒙・混迷・統合』/民族の誇りと実存をかけた難しい選・・・
1911年のモンゴル独立宣言に入らなかった内モンゴルは、独立と高度自治と自治のいずれをとるべきなのか――モンゴル民族の誇りと実存をかけた難しい選択に挑戦するモンゴル人指導者や民衆の姿を、歴史と国際関係の中で描いた力作。
-
今日の一冊
第161回芥川賞受賞作! 狂気の源泉がわからない怖さ/今村夏子『むらさきのスカートの女』
近所の安アパートに住み、パートの職を転々とする「むらさきのスカートの女」が気になってしかたがない“語り手”。自分が勤める清掃会社に彼女を誘導し、ふたりは同じ職場で働きはじめるが……。文体からも“語り手”の異様な狂気が滲む、第161回芥川賞受賞作!
-
今日の一冊
この本を数時間で読了できない人は…?『1万2000人を見てわかった! お金に困らない人、困・・・
懇親会で料理をガツガツ食べている人と、コミュニケーションに時間を割く人……。どちらがお金に困らない人か、わかりますか? お金に困る人と困らない人の行動パターンを対比し、整理して取りまとめた話題書を紹介!
-
今日の一冊
忘れてはいけない「平成」の記憶(13)/與那覇潤『知性は死なない――平成の鬱をこえて』
平成日本に生きた者として、忘れてはならない出来事を振り返る特別企画。
躁うつ病(双極性障害)と診断された著者による闘病記は、とうてい他人事ではないスリリングな本で、平成という時代の本質を衝いている――と、作家・関川夏央は語ります。 -
今日の一冊
尾関高文『ザ・ギース尾関の「娘の絵を完コピ!」おえかきキャラ弁』/見れば笑いがこみあげる、・・・
「こんなお弁当を作って」と4歳の娘が描いたキャラクターを、お笑い芸人の父親が完全再現! 見ているだけで笑いがこみあげる、楽しいエッセイ付き写真集を紹介します!
-
今日の一冊
逆境から這いあがったJR九州の奮戦記『新鉄客商売 本気になって何が悪い』
厳しい赤字経営状況から、九州新幹線全線開通をはたし、大評判の「ななつ星」を作り上げたJR九州。快進撃をつづける経営者の信念が伝わる一冊を紹介します。
-
今日の一冊
ネイチャー・ノンフィクションの名作『動物たちの内なる生活 森林管理官が聴いた野生の声』
老いたシカは不機嫌になって口やかましくなり、老いたウマは重い体を起こすことの不安から、横向きに眠らなくなる……。ドイツの森林管理官が、森の動物たちの声に耳を傾け、つぶさに観察してその生活を描いたネイチャー・ノンフィクション。
-
今日の一冊
『狂うひと「死の棘」の妻・島尾ミホ』(梯久美子著)が描く、戦後文化史に残るカップルの視点。
島尾敏雄の『死の棘』に登場する愛人「あいつ」の正体は誰なのか?未発表原稿や日記、手紙等の膨大な新資料によって、伝説の名作の隠された事実を掘り起こす著者渾身の評伝。川本三郎が解説します。
-
今日の一冊
輝けるドラマの時代を考察する『90年代テレビドラマ講義』
野沢尚、野島伸司などの脚本家が脚光を浴び、テレビドラマが輝いていた九〇年代。当時のシナリオ検討から、どのように時代が反映されていたかまで、著者が詳しく考察しています。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】凪良ゆう『滅びの前のシャングリラ』/全人類が死を迎える場面に、筆1本で・・・
1か月後に小惑星が地球に衝突する世界で、「特に生きたいと思っていない」登場人物たちは、どう生きるのか――本年度の本屋大賞受賞後第一作!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】大沢在昌『暗約領域 新宿鮫XI』/30年目を迎えた警察小説の金字塔!
1990年刊の『新宿鮫』から約30年。ヤミ民泊、MDMA、仮想通貨、謎の国際犯罪集団の台頭など、複雑さを増す現代の犯罪シーンを活写する、大人気警察小説シリーズ最新作を紹介します。
-
今日の一冊
栗原 康著『 村に火をつけ、白痴になれ 伊藤野枝伝』を与那原 恵が解説!
情熱に溢れ、勢いに満ちた文体で綴る伊藤野枝の生き方。その鮮烈な姿に、読んでいて引き込まれずにはいられない!ノンフィクションライターの与那原恵が解説します。
-
今日の一冊
森まゆみ著『子規の音』に投影された「旅する子規」の素顔。
実によく旅をしていたとされる、正岡子規。幕末の松山から明治の東京まで足跡を辿り、身代を食いつぶすほどの旅好きであったという子規の等身大の姿を浮かび上がらせた一冊。川本三郎が解説します。