村上春樹 編訳『ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集』/アメリカを代表する作家の晩年
1925年の長編小説『グレート・ギャツビー』の作者であり、アメリカ文学を代表する短編の名手であるスコット・フィッツジェラルド。その晩年に書かれた作品を、村上春樹が編訳した一冊を紹介します。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
与那原 恵【ノンフィクションライター】
ある作家の夕刻 フィッツジェラルド後期作品集
村上春樹 編訳
中央公論新社
1700円+税
装幀/和田誠事務所
アメリカ文学を代表する短編の名手「晩年」の風景
スコット・フィッツジェラルドがその生涯に発表した長編小説は四冊で、『グレート・ギャツビー』(一九二五年)は三作目だった。二十八歳にして代表作を刊行したが、売れ行きは芳しくなく、アメリカ文学を代表する作品と位置付けられるのは没後である。
二〇〇六年に村上春樹訳『グレート・ギャツビー』が出て、光や闇や色彩描写の見事さ、人物造型、言葉の一つひとつに魅せられた。
フィッツジェラルドは、一九二〇年代の狂騒の時代に登場し、妻のゼルダとともに華々しいエピソードをふりまいた。だが二九年の世界大恐慌と同時期、フィッツジェラルドの実生活の勢いもしぼんでいった。三〇年代になると、ゼルダが精神を病み、彼は酒におぼれ、執筆もはかどらなくなった。
それでもフィッツジェラルドは、多くの短編を執筆し、長編(完成をみなかった『ラスト・タイクーン』)にも取り組んだ。そして四〇年、四十四歳で世を去ってしまう。本書は、「晩年」にあたる時期の作品を村上が編訳した一冊だ。
旅にも、社交にも飽いたカップルを包む不穏な空気(「異国の旅人」)。アルコール依存症の医師が暮らす田舎町に竜巻が襲った日(「風の中の家族」)。ある種のおかしみが漂う借金生活(「フィネガンの借金」)など、フィッツジェラルド自身を思わせるが、重苦しいわけではない。村上は、薄暗い時代に生み出された作品群であっても〈しかしそこには、深い絶望をくぐり抜けようとする、そして微かな光明をなんとかつかみ取ろうとする前向きな意志が垣間見える〉と述べている。
エッセイ「私の失われた都市」の一節。〈ある日の午後タクシーに乗って、藤色とバラ色に染まった空の下、高層ビルの間を抜けていたときのことだ。私はわあわあ泣き出した。なぜなら私はほしいものを残らず手に入れていたし、これほど幸福になることはもう二度とないだろうとわかったからだ〉。
絶頂期に見た夕刻の空。若き作家は自分の未来を悟りながらも、作家の歩みを止めなかった。
(週刊ポスト 2019年9.13号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
ピョン・ヘヨン 著、姜 信子 訳『モンスーン』/実は誰もが知っている「恐怖」の地獄を描く
「不幸と傷が、不安と疑心が、私に小説を書かせる力となる」と語る韓国の作家が描く、恐ろしい九篇の物語。その恐怖は、日々の生活と完全に地続きだから怖いのだ、と翻訳家の鴻巣友季子は解説します。
-
今日の一冊
岡崎武志著『気がついたらいつも本ばかり読んでいた』は充実のヴァラエティブック。坪内祐三が解・・・
20冊以上にのぼる著者の愛蔵スクラップブックから選りすぐった、各紙誌掲載の書評原稿やエッセイやコラムの数々。写真も豊富に掲載したヴァラエティブックの魅力を、坪内祐三が解説します。
-
今日の一冊
山田詠美『吉祥寺ドリーミン てくてく散歩・おずおずコロナ』/安易に使われるさまざまな言葉を・・・
分別ある大人が使う「おうち」という言葉や、「萌えキャラ」「女の質の向上」など、安易な言葉を使用するメディアや短絡的に物事を分類する言葉が嫌いな山田詠美氏が綴る、最新エッセイ!
-
今日の一冊
小松原織香『当事者は嘘をつく』/性的暴行を受けた被害者の葛藤を語るノンフィクション
自身も性的暴行を受けた被害者であるという著者が、事態とむきあうデリケートな心模様を臨床哲学的な言葉でとらえた一冊。
-
今日の一冊
東山彰良著・直木賞受賞第一作『罪の終わり』が描く、神と呼ばれた男の人生。著者にインタビュー・・・
崩壊した世界。すべてが壊れた場所で、価値観をめぐる闘争が始まる。『流』から一年、さらなる注目を集める作家・東山彰良が描く、神と呼ばれた男の人生。その創作の背景を、著者にインタビューしました。
-
今日の一冊
金と女のスキャンダルにまみれた権力者の素顔を暴く/川勝宣昭『日産自動車極秘ファイル2300・・・
かつて自動車労連会長の塩路一郎によって長らく私物化されていたという、日産。この本はそんな会社の危機を救うため、当時課長だった著者が数名の同志とともに戦った、義憤と悲哀の記録です。
-
今日の一冊
山本七平著『戦争責任は何処に誰にあるか 昭和天皇・憲法・軍部』に示される独自の論考。平山周・・・
「戦争責任論と憲法論は表裏にある!」「知の巨人が『天皇と憲法』に迫る!」と帯のコピーに謳われている本書。「空気の研究」は山本七平を代表するもののひとつですが、本書ではその思想史を深め、憲法をめぐる論議が盛んな現状に一石を投じます。平山周吉が解説します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】高山羽根子『如何様』/敗戦後に帰ってきた男は本物か、偽物か
戦後の混乱期に帰ってきた男は、出征前の姿とは似ても似つかず、別人にしか見えなかった――。ありがちな成りすまし事件に見せて、虚と実を巡る思わぬ境地に読者を誘う傑作!
-
今日の一冊
小山俊樹『評伝 森恪 日中対立の焦点』が語る、近代日本史の悪役の素顔
政治による軍のコントロールを志向した近代史の「悪役」と言われた、 森恪(もりかく)とはどのような人物だったのか?平山周吉が解説します。
-
今日の一冊
黒田勝弘著『韓国はどこへ?その「国のかたち」の変質と行方』に見る、最新の韓国事情とは?
韓国通日本人記者がみる、最新の韓国事情。深い分析から、歴史認識や政治についての問題点を、作家の関川夏央が読み解きます。
-
今日の一冊
ローベルト・ゼーターラー 著 浅井晶子 訳『野原』/死者たちの声は深く静かに響き合って、や・・・
どこにでもあるようなありふれた町、パウルシュタットで、住民たちはつましく生き、生涯を閉じると、町はずれの「野原」と呼ばれる墓所に葬られた。それぞれ抱えた苦しみや悲しみも、愛のかたちも違う死者たちの声は深く、静かに響き合って、やがて町の歴史が織りあげられてゆく……。現代オーストリアを代表する作家が描く、静かな物語。
-
今日の一冊
ローラン・ビネ 著、高橋 啓 訳『言語の七番目の機能』/フランスの記号学者殺害の謎に挑む!
ナチのユダヤ人大量殺戮の首謀者を描いた『HHhH』で、日本でも話題となった作家ローラン・ビネの最新長編ミステリー。翻訳家の鴻巣友季子が解説します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】深沢潮『海を抱いて月に眠る』
在日朝鮮人をテーマにした作品で注目を浴びる深沢潮氏。父や自らの人生に向き合った家族の記録でもある最新長編小説について、執筆の背景を訊きました。
-
今日の一冊
忘れてはいけない「平成」の記憶(12)/清武英利『プライベートバンカー』
平成日本に生きた者として、忘れてはならない出来事を振り返る特別企画。
かつて一億総中流社会といわれた日本が、平成の30年で格差社会に変貌してしまったと語る経済アナリスト・森永卓郎が選んだ1冊は、富裕層の姿を詳細に記述し、本当の幸福とはなにかを考えさせるノンフィクションでした。 -
今日の一冊
【著者インタビュー】山内マリコ『すべてのことはメッセージ 小説ユーミン』/荒井由実が自分だ・・・
デビュー50周年を迎えたユーミンの軌跡を、事実や証言に基づき、想像力で一から紡ぎあげた長編小説。執筆の背景を、著者にインタビューしました。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】窪 美澄『たおやかに輪をえがいて』/家族の「密事」が、穏やかな主婦の人・・・
子育てもひと段落し、穏やかな日々を送る52歳の専業主婦。ある日、夫のクローゼットで風俗店のポイントカードを見つけてしまい――家族の秘密を知った女性が、柔軟に変わっていく姿を描いた家族小説!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】長嶋 有『俳句は入門できる』/日常があって俳句がある! 新しいかたちの・・・
季語や切れ字について教えてくれる入門書はあっても、『日常があって俳句がある』ということを教えてくれる本はなかなかない――。そこで書かれたという本書は、俳句をとりまく言葉や景色をより豊かにしてくれる、新しいかたちの入門書です。
-
今日の一冊
荒川 晃『私説 春日井 建――終わりなき反逆』/三島由紀夫に絶賛された歌人の多面的な天才像
十九歳でデビューし、三島由紀夫に絶賛された春日井 建氏の評伝。サブカル創生期に「同性愛、暴力指向、血への偏愛」にあふれた短歌を詠んだ歌人の人生を、親友が語ります。
-
今日の一冊
なぜ事故は起きたのか?『日航123便 墜落の新事実 目撃証言から真相に迫る』
1985年8月12日に起きた、日航ジャンボ機墜落事故。はたしてこれは事故なのか、それとも事件なのか? 生存者の同僚だった著者が、目撃者の証言をもとに真実を追います。
-
今日の一冊
松山巖著『ちちんぷいぷい』は都市の孤独などを描いた短編集。嵐山光三郎が解説!
東京の片隅に棲息する50人の独り言。生死の境を飛び越える浮遊感が、独特の世界観を醸し出している、短編小説集。 都市の孤独と、愛と生と死を紡いだ物語の数々を、作家の嵐山光三郎が解説します。