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ピョン・ヘヨン 著、姜 信子 訳『モンスーン』/実は誰もが知っている「恐怖」の地獄を描く

「不幸と傷が、不安と疑心が、私に小説を書かせる力となる」と語る韓国の作家が描く、恐ろしい九篇の物語。その恐怖は、日々の生活と完全に地続きだから怖いのだ、と翻訳家の鴻巣友季子は解説します。

【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
鴻巣友季子【翻訳家】

モンスーン

ピョン・ヘヨン 著
姜 信子 訳
白水社
2000円+税 装丁/緒方修一

日常と地続きだからこそ怖い「地獄」が描かれる九篇

 地獄とはどんな所か? 劫火が燃え盛る阿鼻叫喚の巷だろうか?
 九篇から成る短編集『モンスーン』に描かれている地獄は、少なくともそれとは異なるものである。すばらしい日本語で届けてくれた訳者は、「その恐怖は、誰もが実は知っている、感じている」ものだと表現する。どの物語も日々の生活と完全に地続きだ。地続きだから怖いのだ。とくに「夜の求愛」を含む七篇のテーマは「同一性の地獄」だという。つまり、砂を噛むような同じことが延々と反復される日常の腐食力である。
「観光バスに乗られますか?」は、KとSというふたりの男が重くて汚い袋の配達を上司から指示される。目的地は後からメールで伝える。袋は絶対開けてはいけない、と。彼らはタクシー、観光バス、市外バスと乗り継いで……。『ゴドーを待ちながら』のふたりを髣髴ほうふつさせる。
「散策」は臨月の妻の元へ帰ろうとする夫が日常の亀裂に迷いこむ。「カンヅメ工場」では缶詰の密封という同じ作業を繰り返す工員が、どす黒い“変化”を夢想する。「同一の昼食」は毎日コピーしたようなランチ定食をとる複写・製本店の主人がふと疑問を……。
 これらの七篇と趣を異にするのが最初と最後の二篇だ。「モンスーン」は、子を亡くした夫婦の間に吹き巡る風を描いているとも言える。風向きはいつどちらに変わるかわからない。ある日なにげなく開けたバーの扉が、決定打になるかもしれないのだ。「少年易老」は難病で死にゆく工場経営者の家族の情景が級友によって語られる。しかしある時、彼があることをした(しなかった)のを境に、語り手もその「絵」の中に入りこんでしまう。ベラスケスの「女官たち」のように。
 作者は言う。「不幸と傷が、不安と疑心が、私に小説を書かせる力となる」と。「幸福とは閉ざされた箱庭のようなもの。そこに物語は生まれ得ない」というある作家の言葉を思いだした。秋の夜長、背中をぞわぞわさせながらお読みください。

(週刊ポスト 2019年10.11号より)

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