佐藤賢一『ナポレオン 1 台頭篇/2 野望篇/3 転落篇』/皇帝のあまり英雄的でない部分にも光をあてた書
ほぼ初対面の、一七歳の婚約者にむかって「まだ処女だろうね」とデリカシーのない言葉を発したり、うすくなりだした髪の毛を気にしたり……。英雄ナポレオンの、あまり英雄的でない側面を見過ごさずに書かれた小説です。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
井上章一【国際日本文化研究センター教授】
ナポレオン 1 台頭篇/2 野望篇/3 転落篇
佐藤賢一著
集英社
各2200円+税
装丁/泉沢光雄
男として器の小さいところも見過ごさないのが著者の個性
ナポレオンの伝記、評伝は、昔からたくさん書かれてきた。小説の形にまとめた読みものも、いっぱいある。マンガになったものも、少なくない。日本におけるフランス史の人気を、マリー・アントワネットとともにささえ、二分する人物だと言える。
私は、そのどちらに関する書物も、けっこう読んでいる。こういうものに目をとおすと、書き手ごとのちがいもたのしめる。菊池寛には菊池寛のナポレオンがあり、城山三郎にも彼なりのナポレオンがある。そういう違いが、けっこう味わい深かったりする。
スタンダード・ナンバーの演奏ぶりで、ミュージシャンごとの個性を堪能する。枯葉でビル・エヴァンスとキース・ジャレットを聴きくらべる。あれと同じ娯楽に、読書をとおしてひたることができるのだ。
さて、佐藤賢一のナポレオンである。類書とくらべれば、あまり英雄的ではない部分に光があたっているなと、私はうけとめた。人として、男として器の小さいところも、見すごさないようにした小説だと思う。
たとえば、あとで皇帝となる主人公は、最初の婚約者にたずねている。一七歳の娘に、「まだ処女だろうね」、と。会話もかわしあわない、ほぼ初対面といった段階で。女性にたいするデリカシーなど、かけらもないナポレオン像が、うきぼりになっている。コルシカ生まれの野人という人柄が。
帝位についたころから、ナポレオンは髪の毛がうすくなりだした。そのことでは、悩むようにも、なっている。オーストリアから若い皇妃をむかえた時には、自問自答を余儀なくされてもいた。こんなハゲかけた頭で、新しい后にきらわれないだろうか、と。英雄の、意外にちっぽけな部分が、とりあげられているのである。
私などは、しかしそういうところに、かえって親しみをいだいた。いや、私だけではないかもしれない。今は世界へはばたくだけのヒーロー像が、けむたがられる時代になっているような気もする。
(週刊ポスト 2019年12.20/27号より)

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