彩瀬まる『森があふれる』/モラハラで抑圧された妻が、ある日“狂う”
作家の夫によって小説のモデルにされ、隠微なモラルハラスメントを受け続けた妻の身に、ある日「発芽」という変調が……。父性社会で抑圧された女性をさまざまな角度から描く傑作。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
鴻巣友季子【翻訳家】
森があふれる
彩瀬まる著
河出書房新社
1400円+税
装丁/アルビレオ
装画/大小島真木
父性社会で抑圧され「樹木」となった女性を多視点で描く
父性社会ではその原理に準じないものは「霊力」あるいは「狂気」とみなされてきた。それは時代によって、神経衰弱、ノイローゼ、ヒステリーなどと呼ばれもした。神の声を聞くジャンヌ・ダルクが、一転して魔女扱いされることもあった。
一方、男性芸術家はそうした霊感をもつミューズ(女神)に頼ってきた。ショパン、ピカソ、ジョイス、谷崎、ゴダール……ミューズとは、その名で讃えられながら、創造的搾取を受けてきた“シェイクスピアの妹”たちのことでもある。
『森があふれる』でも、ある日、作家の妻が“狂う”。心身ともに変調をきたす。なんと、「発芽」し、部屋の中で木になってしまうのだ。この作家「
ところが、埜渡は妻に日々、果てるともない隠微なモラルハラスメントを加え、抑圧し、萎縮させ、精神の小部屋に閉じこめている。自分より決して大きく育たないようにしている。そうして、「愛していた、だから許せない、などと支離滅裂なことを口走りながら人間でなくなっていった琉生の姿」を「面白かった」と宣う。
本作は、埜渡の担当編集者(男性)、不倫相手、作家、作家の新しい担当者(女性)、妻へと視点を移して、様々な角度から描かれる。樹木になって部屋に幽閉される妻を「見殺し」にしてまで原稿をとる男性編集者、分裂的気質を演じながら小説のモデルとなる不倫相手、「格上の」企業に勤める夫のプライドに閉口する女性編集者は琉生の森に分け入っていくと……。
妻がしなびていく描写があるが、一種の「精神的吸血(spiritual vampirism)」が描かれているとも言えるだろう。しかし琉生の森は部屋の境を越えていく。語られる者から語る者へと。
個人的には、昨年もっとも痛切に響いた一冊。ジェンダーの区別なくぜひ読んでほしい。
(週刊ポスト 2020年1.31号より)

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