中村 明『五感にひびく日本語』/悪事とかかわると「手を汚す」が、抜け出すときは「足をあらう」になるのはなぜ?
「耳にタコができた」「臍で茶をわかす」「手を汚す」「足をあらう」「口がすべる」など、日本語にはたくさん、体のパーツを含んだ慣用句があります。そしてときには、それが心や内面ではなく、身体など他のものに責任をおしつけているような言いかたに思えることも……。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
井上章一【国際日本文化研究センター教授】
五感にひびく日本語
中村 明著
青土社
2200円+税
装丁/桂川 潤
身体へ責任をおしつける表現は民族性にどう影をおとすか
日本語には、身体のパーツで心模様をあらわす慣用句が、たくさんある。たとえば、もう聞きあきたという想いを、日本人は「耳にタコができた」と、言いならわす。じっさいに、耳の皮膚がかたくなって、ふくらみはしなくても。こういう言いまわしを不思議がる日本語学習者は、少なくない。「
悪事とかかわることは、「手をよごす」と表現される。しかし、悪い世界からぬけだすことは、「足をあらう」という言いまわしになりやすい。「手をよごして」悪くなったのに、なぜ良くなる時は「足をあらう」のか。「よごす」部位と「あらう」部位が、くいちがっている。それは、いったいどういうことなのかと、しばしば彼らは問いただす。
まだある。悪の途にはいった人は、自身の精神もけがしているはずである。しかし、「手をよごす」と言われれば、精神のほうは無垢ででもあるかのように、ひびく。責任は「手」にしかないのか。当人の主体性は、どうなっているんだ。「足をあらう」のも同じで、精神がおきざりにされているのではないか。そういぶかしがる留学生は多い。
調子にのり、言わなくてもいいことを広言してしまう。そんな状態を、日本人は「口がすべる」という言いかたで、よくさししめす。まるで、罪を「口」へなすりつけるかのように。上調子となった当人の精神は棚へあげてしまう。そういう慣用句が、日本語ではまかりとおっている。「筆がすべる」と、失言を筆記具のせいにする言いかたも、なくはない。
心や内面ではなく、身体や道具へ責任をおしつける。そんなイディオム群に、われわれの言語生活はとりかこまれている。「浮気の虫がわく」、「女に手がはやい」といった物言いに。こういう環境は、日本人の民族性にどのような影をおとしているのか。そんなことを考える素材として、この本は読みおえた。
(週刊ポスト 2020年2.21号より)

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