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高澤秀次『評伝 西部邁』/「大衆」が一人の思想家を殺した?

2018年1月に多摩川で自死を遂げた思想家・西部邁の初の評伝。著者は彼を殺したのが「集団になると嵩にかかって居丈高になる」「大衆人」であるとしますが……。まんが原作者・大塚英志が解説します。

【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
大塚英志【まんが原作者】

評伝 西部邁

高澤秀次 著
毎日新聞出版
2000円+税
ブックデザイン/鈴木成一デザイン室

「何も信じない」思想家は「大衆」に殺されたのか?

 正直に言えば、いわゆる「論壇」に若気の至りで身を置いた時期、西部邁という人の書くものに僕はあまり関心が持てなかった。だから死の直前、彼の雑誌に全く唐突に呼ばれて久しぶりに彼の顔を見ても、では以前、いつ会ったのかが思い出せなかった。会おうと言われ逃げ続けた江藤淳の後ろ姿を文春のロビーで一度だけ見たことや、対談中に随分と弱った(ただしその後、長生きもした)吉本隆明に肩を貸した感触は今も鮮明に覚えているのに、である。それは結局、彼の顔を意図せずともテレビモニターその他の「大衆メディア」の中に散発的に見続けたからかもしれない。
 ぼくが西部に魅かれなかったのは、彼が何も信じていないように思えたからだ。江藤も吉本も妻と犬猫に実存の拠り所を置き、ぼくはそういう犬猫に根差す思想しか信じないと江藤の死の時、うそぶいた記憶がある。西部もその点は共通だが、しかし江藤は近代というものに幾許かの可能性を信じていたし(だから加藤典洋や上野千鶴子やぼくがねじれた偏愛を受けた)、吉本は良くも悪くも大衆を信用しようと決めていた。無論、「信じない」ということは彼の潔癖さなのかもしれないが、著者の高澤が、吉本が西部の思想に「大衆」という概念がないと批判したことに憤るように、西部の思想の一面は「大衆」的なものへの批判として痛々しくあった。
 高澤は西部を殺したのは「集団になると嵩にかかって居丈高になる」「大衆人」であるとする。その憤りはわからなくない。しかし今、その「大衆人」は「嫌韓本」の市場でもある「保守」や「日本人」を自称する人々の顔をしている。西部ならずともかつての「保守」はうんざりするだろう。
 だが、その程度の「大衆人」が、一人の思想家を殺したとするなら、つまりは、彼が批判するものに敗れたことになる。それはそれでテレビのモニターのこちら側の大衆の一人であるぼくは、やはり西部が嫌悪した側の人間として思いもする。

(週刊ポスト 2020年3.20号より)

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