山下紘加『クロス』/女装をアイデンティティに「性」を超えていく
主人公は、警備会社に勤める二十八歳の既婚男性。女装癖をもつことから、女性として恋人に求められたいと思い、女装を自分のアイデンティティとするようになりますが……。中世的な妻や女の子っぽい愛人との交わりよりも、男性同士の会話で作者の筆致が艶めく一作。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
鴻巣友季子【翻訳家】
クロス
山下紘加
河出書房新社
1600円+税
装丁/佐藤亜沙美
装画/雪下まゆ
妻や愛人との交わりより男性同士の会話でこそ艶めく筆致
本作は、主人公のセックスシーンで始まる。恋人の「タケオ」に「マナ」と呼ばれる「私」は、警備会社に勤める二十八歳の既婚男性だ。妻は女性で、それまでの恋愛相手も異性だったという。
紙幅の多くが割かれるのはタケオとの関係ではない。「私」が女装癖をもつところから、女性として恋人に求められたいと思い、女装を自分のアイデンティティとするようになる―性をクロスし(越え)ていく過程だ。
「私」は学生時代から、なんとなく男らしい集団に混じり、男らしいとされることをしてきた。しかし妻が働きだすと、「私」はだんだん経済的に依存しだし、男女の役割が逆転したような感覚をもつ。性別の固定観念に縛られていたのだ。
作者の筆致が艶めくのは、わりあい中性的な妻との関係や、こってり女の子っぽい愛人の愛未との交わりより、むしろ会社の体育会系の先輩と飲みにいったときに先輩がジョッキを取り違え、「なんだ、これおまえのだわ。間違えて呑んでた」「全然いいっすよ」みたいな会話だったり、昼に屋外で一緒に弁当を食べる後輩が後ろから、「先輩ー! もしかして俺のこと探してました?」と声をかけられる場面だったりする。
しかしさらにセンシュアルなのが、自分と交わるくだりだ。「私」はタケオに「女装の自分とセックスしてみたいと思ったことはある?」と訊かれ、あると即答し、女装をして愛未との行為の最中に「自分で自分を抱いているような錯覚を覚え」て興奮する。女装をするのは見せるためというより「女の自分に会」うためになっていく。その延長線上にタケオへの思いもあるはずだったが……。
「私」は、妻にも恋人にもタケオからも必要とされているか訝り、過剰な気遣いや掃除や性的奉仕に努める。結局、「私」が越えるのは性ではなく自他の境なのではないか。他人として会う自分に必要とされること。そこには絶対的な安心と、究極の孤独がほの見えるのだ。
(週刊ポスト 2020年6.12/19号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
【著者インタビュー】田中里尚『リクルートスーツの社会史』/就活生はなぜみな同じスーツを着る・・・
ある人は「就活」学生の制服と言い、またある人は同調圧力の強い日本社会をあらわしていると言う「リクルートスーツ」。不思議な日本独特の服装の謎に迫る一冊を紹介します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】柚月裕子『凶犬の眼』
映画『仁義なき戦い』や実際の広島抗争をモチーフにし、役所広司主演で映画化もされた話題作『孤狼の血』シリーズの第2弾! 著者に、作品に込めた想いを訊きました。
-
今日の一冊
【2020年の潮流を予感させる本(5)】紅野謙介×伊藤氏貴『季刊文科78 令和元年夏季号 ・・・
新時代を捉える【2020年の潮流を予感させる本】、第5作目は、変わりつつある国語教育をめぐる対談。まんが原作者の大塚英志が解説します。
-
今日の一冊
【2018年の潮流を予感させる本】『こうして歴史問題は捏造される』
歴史の事実を見抜く力をつけるには。謙虚に歴史を見つめる方法をわかりやすく提示する一冊。平山周吉が解説します。
-
今日の一冊
柄谷行人著『柄谷行人講演集成 1995-2015 思想的地震』に凝縮された代表的講演。大塚・・・
今この時代に、最も必要とされるであろう強靭な思想が凝縮された、柄谷行人の講演の集大成。大塚英志が解説します。
-
今日の一冊
甲斐扶佐義 編著『追憶のほんやら洞』に綴られた、文化人たちの思い。坪内祐三が解説!
京都最大の学生街に出現した、風がわりな喫茶店。「ほんやら洞」とは何だったのか?2015年の焼失まで、それぞれの時代にそこに通った68人がそれぞれの「ほんやら洞」を追憶する一冊。評論家の坪内祐三が解説します。
-
今日の一冊
嶋田直哉『荷風と玉の井「ぬけられます」の修辞学』/永井荷風好きなら必読!
生誕百四十年、没後六十年を超えてもなお、根強い人気を誇る永井荷風作品。なかでも有名な『濹東綺譚』について新しい論を提示する、荷風好きには必読の一冊を紹介します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】中村光博『「駅の子」の闘い 戦争孤児たちの埋もれてきた戦後史』/駅に住・・・
かつて全国に12万人もいたという戦争孤児。路上生活を強いられ、駅に住み着いた子どもたちの闘いの日々が綴られた本書は、戦争の残酷さを改めて炙り出します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】藤岡陽子『満天のゴール』
医療過疎地で、医師が往診の度に貼ってくれる、星の形をしたシール。痛みに耐えたら1枚、採血したら1枚と星は増え、そのゴールは死を意味していた――。生と死に向き合う、感動の医療長編小説。
-
今日の一冊
天才たちが出会った奇跡の一年『巡り逢う才能 音楽家たちの1853年』
1853年、鉄道と郵便が発達したヨーロッパで、偉大な音楽家たちはどのようにして出会い、争い、和解し、すれちがったのか? 当時の時刻表やホテルリスト、郵便料金表を熟読して描かれた、刺激的で楽しい伝記。
-
今日の一冊
夢うつつの感触で紡ぐ物語『千の扉』
マンモス都営団地で新婚生活を始める三十九歳の女性を中心に、数々の人生が断片的に語られていきます。人の記憶と場所の記憶が交錯し、どこか夢うつつの感触で紡がれる長編小説。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】本橋信宏『出禁の男 テリー伊藤伝』/天才とは一つのことを愚直に考えられ・・・
映像化され世界的なヒットとなった『全裸監督 村西とおる伝』の著者、本橋信宏氏がつぎにスポットを当てたのは、テリー伊藤氏でした。コンプライアンスが厳しくなかった時代にも出入り禁止をくらいながら、テレビの世界を変えていった天才ディレクターの半生をつづった評伝。
-
今日の一冊
独裁者を多面的に分析する『金正恩 恐怖と不条理の統治構造』
金正恩の最終カードが何であるか、さまざまな角度から徹底分析。粛清史を塗り変える異常さについても詳しく描写するなど、説得力があり読みやすい書です。
-
今日の一冊
工藤将太郎『入社1年目から差がついていた! お金が貯まる人は何が違うのか?』が説く、納得で・・・
誰でもできる生活習慣を丁寧に解説。どうやったらお金が貯まるのかについて、良心的に説いています。経済アナリストの森永卓郎が解説します。
-
今日の一冊
本城雅人著『英雄の条件』は哀切のエンタメ長編。著者にインタビュー!
あるスラッガーはメジャーでも活躍。ドーピング疑惑に無言を貫くが、真実はいかに? 薬に溺れる者、潔白を信じる妻、めげずに追いかける記者。全霊を賭けた選手の戦いやスポーツの面白さに魅せられた著者に、本書の創作の背景を訊きました。
-
今日の一冊
鈴木健一『不忍池ものがたり 江戸から東京へ』/上野の池をめぐる歴史と文学を、活殺自在に描き・・・
上野恩賜公園のなかにある不忍池は、樋口一葉の歌や森鷗外の小説など、古くから文学作品の題材になってきました。江戸から東京へと移り変わる文化の、深い奥行きが感じられる一冊を紹介します。
-
今日の一冊
坂井豊貴著『「決め方」の経済学「みんなの意見のまとめ方」を科学する』が検証する多数決の欠陥・・・
普段使い慣れている「多数決」は、実は最悪の決め方だった!?そのメリット、デメリットを徹底的に検証した一冊。精神科医の香山リカが解説します。
-
今日の一冊
設楽博己編著の『十二支になった動物たちの考古学』に見る、日本人の思想や宗教観、慣習。
古くから、深く関わっている「人」と「動物」。多方面からその歴史を解説した一冊を紹介します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】滝沢志郎『明治銀座異変』
2017年に松本清張賞を受賞した、歴史ミステリー界の新星・滝沢志郎氏にインタビュー! 江戸の人情を残しつつ、欧化政策への期待と反発が入り混じる明治の時代を描いた新作について訊きました。
-
今日の一冊
ファン必携のインタビュー集『筒井康隆、自作を語る』
SF御三家のひとりと称され、半世紀以上も数々の名作を世に送りだし続けてきた筒井康隆のインタビュー集。コアなファンにも、これから作品を読みはじめる人にもおすすめの一冊です。