津野海太郎『かれが最後に書いた本』/溺れるように本と映画に接した著者の、真率な「回想」と「歴史」
演劇人、編集者、書き手、大学教員と多彩なキャリアを積んだ著者が、長年の読書と愛した映画について回想するエッセイ集。作家・関川夏央が解説します。
【ポスト・ブック・レビュー この人に訊け!】
関川夏央【作家】
かれが最後に書いた本
津野海太郎 著
新潮社 2310円
装丁/南 伸坊
紙の本を愛し「消えてゆく」世代の真率な「回想」
長年の読書とその書き手たちの回想、それにかつて愛した映画についてのエッセイ集である。
著者・津野海太郎は頑健な人で、七十歳を過ぎても老眼以外に不具合がなかった。なのに二〇一四年、七十六歳のとき胆嚢の手術で人生初入院して以来、自分でも驚くほど「老いの証し」を経験した。
自宅の階段から落ちて肋骨を七本折り、歩行中にも転倒。緑内障、心臓冠動脈バイパス手術、腸の憩室炎を患った。昔は歩きながら本を読んでいた彼が、外出時には駅の階段のありかやエスカレーターの乗り継ぎを気にする八十四歳になった。
演劇人、編集者、書き手、大学教員と多彩なキャリアを積んだ人だから、顔が広い。ゆえに「かれが最後に書いた本」の「かれ」はいろいろだが、二歳年少、二〇一九年に七十八歳で亡くなった池内紀が「最後に書いた」『ヒトラーの時代』は衝撃的だった。データ上の間違いと繰り返しが多く、そのかわりユーモアが消えている。健康でお洒落で勤勉であった池内紀自身、自分の原稿に愕然としたことだろう。
津野海太郎は、一九四〇年代後半から七〇年代末まで、すなわち十代から三十代終りまでに溺れるように接した本と映画が自分をつくったという。とくに半鎖国状態にあった五、六〇、映画だけが外国をのぞく窓であった。やがて死ぬのは承知だが、人は一人で死ぬのではない。そんな経験を共有した「友だちとともに、ひとかたまりになって、順々に、サッサと消えてゆくのだ」。
この本は、おもにweb「考える人」の連載を紙に落としたもので、一ページ十九行、今時では文字が詰まった編集だが、読みにくくない。
それは叙述に「…のでね」「…じゃないかな」とまじえて、あえて「世間話」文体のつぶやきに近づけたためで、「老人の威張り」はまったく感じられない。紙の本を愛しながら、やがて「消えてゆく」世代の真率な「回想」と「歴史」として読んだ。
(週刊ポスト 2022年7.1号より)

この記事が気に入ったら
「いいね」をしよう!
P+D MAGAZINEの最新記事をお知らせします。
あわせて読みたい記事
-
今日の一冊
【2020年の潮流を予感させる本(4)】倉林秀男、河田英介、今村楯夫『ヘミングウェイで学ぶ・・・
新時代を捉える【2020年の潮流を予感させる本】、第4作目は、語彙や構文は平易ながら、重層的な解釈が可能で味わい深いヘミングウェイの名文を使った英文法書。翻訳家の鴻巣友季子が解説します。
-
今日の一冊
【「2020年」が明らかにしたものとは何か】アイリス・チュウ、鄭仲嵐『Au オードリー・タ・・・
誰もが変化と向き合った激動の1年を振り返るスペシャル書評。第9作目は、台湾の天才トランスジェンダーを徹底的に解剖した一冊。世界は着実に変わってきていると、評論家の川本三郎は語ります。
-
今日の一冊
浅生ハルミン『江戸・ザ・マニア』/「おかんアート」美術家の著者が江戸趣味の世界を訪ねる
猫愛好家で「おかんアート」美術家の浅生ハルミン氏が、かわいいイラストレーションつきで江戸の名品を解説する愉快な一冊!
-
今日の一冊
【著者インタビュー】滝沢志郎『明治銀座異変』
2017年に松本清張賞を受賞した、歴史ミステリー界の新星・滝沢志郎氏にインタビュー! 江戸の人情を残しつつ、欧化政策への期待と反発が入り混じる明治の時代を描いた新作について訊きました。
-
今日の一冊
前田速夫『谷川健一と谷川雁 精神の空洞化に抗して』/この兄弟の軌跡に「戦後日本社会のオプテ・・・
大正時代に水俣の医者の家に生まれた兄弟の対比評伝。兄・谷川健一は編集者から民俗学者に転じ、弟・谷川雁は詩人となり語学教育に転じるという、振幅の大きな兄弟の人生を丁寧に追いかけます。
-
今日の一冊
左右社編集部編『〆切本』は「最高のサスペンス本」。鴻巣友季子が解説!
〆切とは、不思議な存在。追い詰められて苦しんだはずが、いつのまにか叱咤激励してくれる。夏目漱石から松本清張、村上春樹、西加奈子まで90人の書き手による〆切話94篇を収録しています。〆切と上手につきあっていくための参考書ともいえる、エンターテインメント書を、鴻巣友季子が解説します。
-
今日の一冊
山田詠美『ファースト クラッシュ』/三姉妹をトリコにした「みなしご」の少年
裕福な高見澤家の三姉妹のもとに、突然あらわれた「みなしご」の少年。魔物のような魅力をもつ彼に、みな心を奪われていく――。三姉妹の自我と情熱と欠落が事件をまきおこす、ハードボイルド・ロマン。
-
今日の一冊
小西康陽『わたくしのビートルズ 小西康陽のコラム 1992-2019』/最高にマニアックな・・・
“ピチカート・ファイヴ”でデビューし、世界中で高い評価を得た音楽家・小西康陽氏のコラムやレビュー、対談、未発表の日記などを収録した一冊を紹介!
-
今日の一冊
ヴァレリー・アファナシエフ著『ピアニストは語る』による音楽教育への提言。
カリスマピアニストが、自身の人生の軌跡と、音楽哲学を語ります。そこに描かれているのは、ソ連時代の暗鬱な空気の中でのモスクワ音楽院での修業の日々や、国を捨てる決意をするに至るまでなど。井上章一が解説します。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】小川 哲『地図と拳』/短命に帰した満洲国の歴史に、人工都市の虚像を上書・・・
中国東北部に桃源郷があると聞いて様々な思惑を抱えてやってきた人々と、その架空の町の50年史を描く巨篇! SF界注目の新星に、執筆の背景を訊きました。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】テロに時効はない! 未解決の新聞社襲撃事件の謎に挑む/森 詠『総監特命・・・
「次世代に警告を与えられるフィクションをめざしたい」と語る、元々はジャーナリスト志望だったという著者。1987年から1990年にかけて実際に起こった“赤報隊事件”の真相に、虚構を通じて迫った新作についてお話を伺いました。
-
今日の一冊
ヘンリー・ジェンキンズ著 渡部宏樹、北村紗衣、阿部康人訳『コンヴァージェンス・カルチャー ・・・
『スタートレック』の二次創作文化を題材にしたファン参加型の文化論を展開するなど、メディア研究に偉大な功績を残したヘンリー・ジェンキンズ氏の名著。まんが原作者の大塚英志が解説します。
-
今日の一冊
角幡唯介著『漂流』が描く沖縄漁師の死生観。鈴木洋史が解説!
沖縄の漁師の生き様を追った長編ノンフィクション。37日間におよぶ漂流から「奇跡の生還」を果たした漁師の男。彼は8年後、再び漁に出ます。その特異な死生観とは?ノンフィクションライターの鈴木洋史が解説します。
-
今日の一冊
フランスを震撼させたテロの実態『グローバル・ジハードのパラダイム パリを襲ったテロの起源』
2015年にフランスで起こった「シャルリー・エブド」誌編集部襲撃や、サッカー場での自爆事件。これらの「聖戦(ジハード)」と称された一連のテロの実態を探る一冊。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】日高トモキチ『レオノーラの卵 日高トモキチ小説集』/エンタテイメントの・・・
挿画家や写真家など様々な顔を持つ著者が「私は好きに書いた、あとは好きに読んでくれ」と世に送りだした短編集。どこか幻想的でいながら、今と何かが重なる、極上の7編が収録されています。
-
今日の一冊
廣瀬陽子『ハイブリッド戦争 ロシアの新しい国家戦略』/「戦争」は、もはや陸海空だけのもので・・・
日本人は軍事という観念を狭くとらえがちですが、古典的な陸海空の戦争空間でなく、宇宙・サイバーを通した挑発や衝突は、もはや稀な現象ではないといいます。目まぐるしく変わる軍事衝突の様式や、ロシア外交の巧妙な技に、専門家の立場から迫る新書を紹介します。
-
今日の一冊
亀和田武著『60年代ポップ少年』が描く、リアルなクロニクル。鈴木洋史が解説!
ポップ史観で60年代を辿る自伝的エッセイ 。多感な少年時代をポップに生きた著者の痛快なネタが満載卓越した記憶力で、既成の60年代史観をくつがえす、名コラムニストの会心の一作を、ノンフィクションライターの鈴木洋史が解説します。
-
今日の一冊
『日本人はどこから来たのか?』
-
今日の一冊
柄谷行人『世界史の実験』/哲学者が読み解く、柳田國男
哲学者であり、文学者でもある著者が繰り広げる柳田國男論。柳田の中に明確な「内的な体系」を見て、柳田学を世界史に対する「実験の史学」と評価しています。しかしこの本の選者・大塚英志が一番興味深いと語るのは……。
-
今日の一冊
【著者インタビュー】伊藤亜紗『記憶する体』/障害とともに生きる12通りの体の物語
全盲、四肢切断、麻痺、二分脊椎症、吃音などをもつ12人のエピソードを通して「体」を考察する一冊。この本を通じ、12人分の体の違いを感じることで、自分の体の輪郭が見えてきたら面白い体験になると著者の伊藤亜紗氏は語ります。