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【著者インタビュー】青山文平『やっと訪れた春に』/男たちの生き様を鮮やかに描く、先の読めない時代小説

橋倉藩では岩杉本家と田島岩杉家が交互に藩主を輩出し、両派の均衡を2人の能吏を置くことで保ってきた。だが状況が変わり、〈いまならば、近習目付は一人でもなんとかなる〉と橋倉藩士・長沢圭史が隠居した矢先、事件は起きる――。著者自身も真犯人を「書くまで知らなかった」と語る、先の展開が読めない時代小説についてインタビュー!

【ポスト・ブック・レビュー 著者に訊け!】

ともに齢六十七 重すぎる命を課された二人の近習目付の運命は――男の生き様を鮮烈に描く時代小説

やっと訪れた春に

祥伝社 
1760円
装丁/大久保伸子

青山文平

●あおやま・ぶんぺい 1948年神奈川県生まれ。早稲田大学政治経済学部卒。42歳で出版社勤務をやめフリーとなり、2011年『白樫の樹の下で』で第18回松本清張賞を受賞しデビュー。15年『鬼はもとより』で第17回大藪春彦賞、16年『つまをめとらば』で第154回直木賞。その他「このミステリーがすごい! 2017年版」第4位に選ばれた『半席』やその続編『泳ぐ者』、『遠縁の女』『跳ぶ男』『底惚れ』等、読んでオイシイ、飯テロ時代小説の名手でもある。170㌢、66㌔、B型。趣味は自転車。

家族や友人のために決断したことの重さは名もなき個人も大人物もなんら変わらない

 29歳の若さで近習目付に抜擢され、今年67になった橋倉藩士〈長沢圭史〉が、わざとよろけてお堀に落ちた、、、、、、、、、、、、、顛末に関して、同い年の同役〈団藤匠〉と語り始めるのが、青山文平氏(73)の新作時代小説『やっと訪れた春に』の冒頭である。
〈不意に、もよおしてな、いきなり差し迫るのだ〉と長年の友に殿のお供で失禁した事実を打ち明け、互いに妻に先立たれた孤独を慰め合う老境譚かと思いきや、まるで違った。表題の意味するところも、これを機に致仕願いを出した圭史や、〈俺はこのやっと訪れた春を楽しむつもりだ〉〈後添えだってもらうかもしれん〉と笑う匠の、第2の人生の話では全くなかったのだ。
 そもそも本来1人の近習目付が2人いるのも、橋倉藩では4代藩主〈岩杉重明〉以降、岩杉本家と田島岩杉家が交互に藩主を輩出し、両派の均衡を2人の能吏を置くことで保ってきたから。だが状況が変わり、〈いまならば、近習目付は一人でもなんとかなる〉と圭史が隠居した矢先、事件は起きる。

「私が書くのは時代小説で、実在の人物を主人公にする歴史小説ではないのですが、使ってる素材はあらかたリアルです。藩主の交代制も実際にあったことで、頭で作ったことではありません。そういうとっておきの素材を集めて寝かせておくと、何かしらの核に出会ったとき、勝手に集まってきて小説を作ってくれる、、、、、、。つまり私は、プロットを作って書く書き手ではありません。しばしば先の展開が読めないと言われますが、そういうことで、予定調和になりようがないのです」
 例えば本作の時間軸は、圭史が庭先の龍を思わせる大木御師おんしの実りを毎年漬ける、〈梅仕事〉の進行と終始並走。その作業の詳細を青山氏は周囲の梅名人に取材した上で、妻や2人の息子にも先立たれた圭史が、家族を思って妻直伝の梅を漬ける時間の尊さを、暮らしの一場面として描出する。
 また、4代藩主・重明が藩政を裏で操る〈門閥〉を僅か半日で排除した事件を、人々は〈御成敗〉と呼び、花見に興じる門閥を襲った実働隊を鉢花はちはな衆〉と畏れた。後に領内の発展に尽力した重明は神社に祀られ、圭史と匠が抜擢されたのも、鉢花衆の家柄だったからだ。
 が、重明から下賜された〈鮫鞘の脇差〉を継ぐ子孫には相応の覚悟が求められ、圭史も15歳になると〈屍体〉を斬る稽古を始めた。父は〈人を斬ることに馴染んでいないと、いざ、実戦になったときに躰が「居着く」〉と言って何度も縫い直した貴重な骸を斬らせ、圭史は圭史で〈こんなことに慣れた人間になってたまるか〉と、吐くことで抵抗した。
 その父が急逝し、圭史は件の脇差も封印したが匠はどうか。共に嫡男もなく、このままでは絶家になると知りつつ放置する理由を、圭史自身〈なんとはなしに〉としか言葉にできない。
 そんな折、田島岩杉家の次期藩主候補が急逝。祖父〈重政〉は今後一切の藩主就任を遠慮し、藩主交代の歴史は幕を閉じたが、その重政が暗殺され、圭史もまた自ら真相を追い始める。

自分で泳いでいる者だけが前に進む

「この本の展開の軸は屍体を斬る稽古にあるわけですが、これも実際に、上級武士の子弟には課せられていたとされています。屍体は簡単に手に入るものではないので、何度も縫って使い回すのです。これが稽古する者にとって理不尽か、理不尽でないか……。物語は、理不尽でしかありえなかった者の、ある行動によって展開していきます」
〈世の中には、おかしいけれど、ずっとつづいてきている仕組みがごまんとある〉〈せいぜい己れらしく生き抜こうとすれば、おかしいことをおかしいと感じつづけるしかない〉とあるように、その理不尽にせめて違和感をもつこと。〈動かずともよい〉〈感じつづけていれば、それは、最後の最後になって出る〉と青山氏は書く。
「これはずっと言ってきてることですが、私は『銀色のあじ』が描きたいんですね。鯵は大衆魚で、我々のこと。銀色は、青魚とされる鯵の生きているときの色です。つまり、生きてる我々が理不尽を含めた周りの変化にもがく姿を書きたい。さもないと、時代小説は単なる昔話になってしまいます。歴史上の大人物、大事件を書かないのも同じ理由です。大人物、大事件を謳い上げることは、大人物、大事件ではない存在には意味がないというメッセージになりかねない。私は名もなき個人が家族や友人のために決断したことの重さは、大人物のそれとなんら変わらないと思っています」
 だとすればなぜ現代ではなく、時代小説なのか。
「時代が遠いほうが読者の鎧が薄くなるのでは。現代の話だとここが違う、あれも違うと、違いばかり気になるけれど、昔の話だと自分と遠い分、近さの方が浮き彫りになる。とりわけ僕が舞台にしている江戸中後期は近いです。つまり、キーワードや叩き台がないという意味で。キーワードのある時代というのは、言ってみれば流れるプール、、、、、、です。時代が動いているから、自分は泳いでいないのに、泳いだ気になれる。でも、今のように流れが止まっていると、自分が泳がなければ沈むだけです。江戸中後期も同じで、自分で泳いでいる者だけが前へ進む。身につまされるほど近いです」
 むろん本書は重政殺しや第2の殺人を追う事件簿であり、そのまさかの真相には誰もが仰天すること必至。実は青山氏自身、真犯人を「書くまで知らなかった」と言い、そのあまりに哀しすぎる動機も、人や社会のリアルなあり様を見つめる中で生まれたものだという。

●構成/橋本紀子
●撮影/朝岡吾郎

(週刊ポスト 2022年8.19/26号より)

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