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モーリー・ロバートソンが語る、「ぼくたちは何を読んできたか」(最終回)その青春の軌跡 モーリーのBOOK JOCKEY【第5回】

国際ジャーナリストからミュージシャンまで、幅広く活躍中の「モーリー・ロバートソン」が、その青春時代を振り返るコラムの最終回。W.バロウズからの返信に始まる本編。モーリーはどこへ行くのか?

ぼくたちは何を読んできたか(最終回)

ウイリアム・バロウズから手紙の返信が届いたのは1987年の3月だった。出版社に書き送った肉筆の手紙への返信だった。本物のウイリアム・バロウズだ。電動タイプライターで印字を打ち込んだ文面で、あちこちに打ち間違いがあり、それらが手書きのペン文字で修正されてあった。スペルミスも気にかけない、2ページにわたって一気に打ち込まれた文面だった。

「ロバートソン殿

いただいた手紙は誠に興味深い内容でした。この宇宙に偶然はありません。ランダムと言われているものも実は必然性があります。電子音楽や東洋の言語に対してまったく造詣がないため、それらの方面でカットアップを使用したリサーチに期待します。欧米の二元論は間違っています。『あれかこれか』ではなく『あれもこれも』なのです。ウイルヘルム・ライヒの研究も一見の価値があります。あなたと同様、私も気分がひどく落ち込むことがありますが、一番いいのは、とにかく忙しくして乗り越えることです。運動をしたり、趣味を持つのもいいでしょう。ちなみに私の趣味は猫と拳銃を撃つことです。ご検討を祈ります」

といった内容が、薄い膜のような紙に印字されていた。ビジネス・レターや学術論文で使用される「オニオン・スキン=玉葱の皮」と呼ばれる用紙で、艶のある紙の末尾に署名も入っていた。バロウズが1960年代から実践し続けていた「カットアップ」と呼ばれる文章の加工法を音声や漢字で実践してみてはどうだろう、という提案への返信だった。

バロウズが好んだ「カットアップ」とは、予めタイプライターで打った原稿のページ数枚分を、それぞれ縦横に鋏で切って四等分し、異なるページの断片を並べて切れ目に発生した新しい『単語』を拾って文章を構築するというもので、過去の他人の名作をページごと切り刻んで自分自身の書いた原稿と「合体」させる場合もあった。

詩人ランボーの作品をカットアップした例もバロウズの本で紹介されている。

“Visit of memories. Only your dance and your voice house. On the suburban air improbable desertions . . . all harmonic pine for strife.

(意訳)記憶の訪問。あなたのダンスとあなたの声のみ、家。郊外の空気の上で起こりそうもない脱走。すべては調和しており闘争を恋しがる。

“The great skies are open. Candor of vapor and tent spitting blood laugh and drunken penance.

(意訳)雄大な空は開かれている。蒸気とテントの虚心坦懐さ、血を吐いて笑い、酔っ払った懺悔。

“Promenade of wine perfume opens slow bottle.

(意訳)ワインの遊歩道、香水がゆっくりとしたボトルを開く。

“The great skies are open. Supreme bugle burning flesh children to mist.”

(意訳)雄大な空は開かれている。至高の進軍ラッパ、燃える人肉、子どもたちは霧になる。

カットアップを通して発生したテキストは英語の段階ですでにコラージュとなっているため、これを和訳してもあまり意味をなさない。だが、偶然発生する妙なつながりは暗号のように読める。この故意に生まれたアクシデントを取り込んで通常の思考の邪魔をすれば、まったく新しい発想が生まれる。

バロウズによればランボーの詩をカットアップすることで、そこにランボーが現れて新たな詩を書いているかのような臨場感を味わえる。偶然発生した新たな単語やフレーズは「ただの偶然」ではなく、文章の中にあらかじめ盛り込まれていた別の可能性が出現した「必然」だと主張する。この手法に疑いや嫌悪感を抱く評論家や文筆家は大勢いた。しかし、それらの批判者をバロウズは古代ギリシャの純粋な理論のみにこだわった哲学者たちに喩えて反論する。曰く、

「重さが2倍の物体は落下する速度も2倍になるはずだ」

という命題で賛否が延々と議論されたが、誰一人実際に異なる重さの物体で実験を試みる者はいなかった、と。言語は言葉の順序や語法などがあらかじめ厳格に決められており、そのルールを破壊するという行為そのものがタブーとなっている。しかもその禁じ手は明文化すらされていない。言語という系が自身を守ろうとするかのように。言語の呪縛から解放され、新たな「時空」へと旅することがバロウズ作品の大いなるテーマだった。

バロウズの作品群は「Naked Lunch」「Nova Express」「The Ticket That Exploded」「Soft Machine」などが有名だが、日本語訳はどれもまずい。「裸のランチ」「ノヴァ急報」に始まる日本語タイトルも、英語の原文が持つ硬質な緊張感や味わいを伝えられず、むしろ日本語訳の過程でまったく別の連想を誘発させてしまうものばかりだ。また、英語のカットアップで発生する独特の語感は当然、日本語に置き換えると別の語法になってしまう。このため訳者によっては手抜き仕事をする絶好の機会にもなってしまっている。カットアップされた原文は格調の高さを保っているのに、日本語になるとひたすらぎこちなく、アマチュアなものへと堕する。極言するなら、バロウズの作品は英語で読むしかない。また、バロウズの考えを方法論として実践するのであれば、日本語の文章を実際にカットアップして、日本語の中で実験的な文章を再構築するべきだ。

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