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アメリカでのベストセラーランキングとともに注目のヒット作「大統領伝記もの」を紹介-ブックレビュー from NY【第5回】

NY在住ジャーナリスト・佐藤則男が、アメリカの「今」のベストセラーを紹介します。アメリカの外交の基本を知ることができる一冊を解説します。

一方、バーバリ諸国との交渉は、奴隷にされたアメリカ船員の解放のための身代金やアメリカ商船の海上安全のための上納金を払うという条件で、1793年にアルジェ太守と平和協定が結ばれた。それを皮切りに、他のバーバリ諸国とも、上納金を払う条件で平和協定が結ばれた。ジェファーソンの意に反し、バーバリ諸国から《平和を買った》のだった。1793年末、ジェファーソンは政府を去った。

しかし、バーバリ諸国との平和が達成されても、ワシントン大統領は戦艦の建造を中止しなかった。1997年、最初の戦艦3隻が進水した。

バーバリ諸国から《買った平和》は長続きしなかった。すぐに上納金の額や支払い方を巡り対立が起き、バーバリ諸国や海賊を威嚇するため最新鋭のアメリカ海軍の艦船が出向いたが、慣れないバーバリ海域では海賊船に翻弄されたり、浅瀬に乗り上げたりと苦戦を強いられた。

トリポリ戦争(第一次バーバリ戦争)

1801年3月、ジェファーソンはジョン・アダムスを選挙で破り第3代大統領に就任した。就任直後の5月、トリポリは合衆国に宣戦布告した。

ジェファーソンは、交渉のためリチャード・デールを司令官とする海軍艦隊をバーバリ諸国に送った。デールはトリポリを海上封鎖することで、平和交渉を有利に展開する戦略だったが、封鎖は失敗した。一方で、ジブラルタル沖では戦艦「エンタープライズ」がトリポリの海賊船団を攻撃し降伏させた。デールの艦隊が行った「唯一効果的だった行動は、脅威に対して軍事力を行使すること」だった。

「エンタープライズ」による軍事行動の成功は、大統領に、海軍の戦艦を必要なだけ紛争地に送る権限を与えた。1802年、ジェファーソンはより大きな艦隊をバーバリ沿岸海域へ送り出したが、これはご難続きだった。新しい司令官のリチャード・バレンタイン・モリスは職務に熱心でなかったため、最終的には更迭され、戦艦「ニューヨーク」は火災を起こして修理が必要となった。

後任のエドワード・プレブル司令官が新任の駐アルジェ総領事トビアス・リアーとともにジブラルタルに着いたころには、モロッコもアメリカと敵対関係になっていたが、最新鋭のアメリカ海軍艦隊は海上からモロッコを威嚇、戦うことなしにモロッコとの平和協定を復活させた。

アメリカ艦隊はトリポリに対しては海上封鎖を続け、トリポリ沖での海戦も仕掛けたが、なかなか効果的な戦果は得られなかった。

1803年10月31日、トリポリ沖で海上封鎖を行っていた戦艦「フィラデルフィア」は敵船を追跡中に座礁、航行不能になりトリポリに降伏、船長以下船員全員が捕虜となってしまった。そのままでは最新鋭のアメリカ戦艦がトリポリの海賊船として使われてしまう恐れがあり、破壊する必要があった。1804年2月16日、密命を受けたステファン・ディケター大尉率いる一隊は、闇にまぎれて「フィラデルフィア」に乗船、火を放ち、破壊に成功した。

《トリポリ太守》を巡るアメリカの陰謀

トリポリ太守のユスフ・カラマンリには、兄弟の一人を暗殺、もう一人を家から追放して、その家族を人質に太守の座に就いた、という“いわく”があった。チュニス領事だったウイリアム・イートンは、ユスフに追放されたハメット・カラマンリを支援し、トリポリ太守の座をユスフから奪回させ、ハメットと平和協定を結ぶという計画を進めた。イートンはチュニスから帰国後、計画実現のため議会やマディソン国務長官を説得して回り、ついに国務長官はイートンの計画を承認した。

1804年6月5日にアメリカを発ったイートンは、エジプトでハメット・カラマンリと合流、1805年3月、海兵隊員など10人のアメリカ人を含む400人の遠征部隊をエジプトのアレキサンドリアからトリポリのダーネに向け進軍させた。遠征軍は抵抗するダーネを攻略、城を占拠し、勝利の星条旗を掲げた。

一方、トリポリとの平和交渉の全権を持つ総領事リアーはユスフ太守との平和交渉を再開、身代金60,000ドルを払うことで「フィラデルフィア」の乗員の解放を含む平和協定が締結された。もともと平和交渉に強気で200,000ドルの身代金を要求していたユスフだったが、ダーネ陥落を知り、すぐにアメリカ側の条件を飲んだ。平和交渉が締結されたため、ユスフの太守の座は守られ、イートンは、占領したダーネから撤退せざるを得なかった。ハメットはアメリカに裏切られた形で再び亡命の身になった(注1)。

アメリカ外交の暁

1805年9月6日のトリポリとの平和協定により、アメリカ商船は再びバーバリ海域を安全に航行できるようになった。

アメリカとバーバリ諸国との一連の関係は、独立後国際的に孤立していたアメリカにとって、外交史上画期的な出来事であった。廃止されていた海軍再結成のきっかけとなったことはもちろん、ダーネ攻略作戦はアメリカ海兵隊の勇敢な活躍をアメリカ中に知らしめ(注2)、外国で初めて勝利の星条旗を掲げた成果になった。アメリカの積極的外交はここから始まったと言ってもよいだろう。

現在の世界情勢を見ると、当時と似たような状況に気付く。アメリカ合衆国と中東や北アフリカの国々、イスラム国(IS)との関係や衝突は、ジェファーソンの時代のバーバリ諸国との関係とあまり変わっていないようだ。バーバリ諸国との外交・平和交渉の難しさ、最新鋭の戦艦や兵器の効果を必ずしも発揮できなかった地域戦、人質交渉の難しさなどは、時代は違っても同質の問題を抱えている。18-19世紀、ヨーロッパ諸国がバーバリ諸国に上納金や身代金を払うことで紛争回避していた時代に、《平和は金で買うものではない》と主張したジェファーソンの外交姿勢は、今もアメリカ外交の基本だ。

昨今、中東や北アフリカにおいてアメリカが外交的に弱体化し、指導力を発揮できなくなっていることに苛立っているアメリカ人は多い。ジェファーソンとバーバリ諸国の物語は、そうしたアメリカ人に共感の念を呼び起こしたに違いない。「アメリカを再び偉大な国に」と叫ぶドナルド・トランプが大統領選挙をかき回した世相とも、深くつながる背景がありそうだ。

(注1) のちにアメリカ議会はハメットに毎月200ドルの手当てを払うことを決議。また人質になっていた家族はトリポリから解放され、ハメットと一緒に住むことになった。

(注2)日本でもブラスバンドの定番曲として有名な「アメリカ海兵隊讃歌(Marine Corps Hymn)」の最初の部分〝From the halls of Montezuma to the shores of Tripoli, we fight our countries battles.. “は、トリポリ戦争のダーネ攻略を歌ったものである。

佐藤則男
早稲田大学卒。米コロンビア大学経営大学院卒(MBA取得)。1971年、朝日新聞英字紙Asahi Evening News入社。その後、TDK本社およびニューヨーク勤務。1983年、国際連合予算局に勤務し、のちに国連事務総長となるコフィ・アナン氏の下で働く。
1985年、ニューヨーク州法人Strategic Planners International, Inc.を設立し、日米企業の国際ビジネス・コンサルティングを長く手掛ける。この間もジャーナリズム活動を続け、ヘンリー・キッシンジャー元国務長官、ズビグニュー・ブレジンスキー元大統領補佐官らと親交を結ぶ。『文藝春秋』『SAPIO』などに寄稿し、9.11テロ、イラク戦争ほかアメリカ情勢、世界情勢をリポート。著書に『ニューヨークからのメール』『なぜヒラリー・クリントンを大統領にしないのか?』など。

佐藤則男ブログ「New Yorkからの緊急リポート」http://blog.livedoor.jp/norman123

 

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