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【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<10>

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の10回目。高度経済成長の立役者、池田勇人について解説します。

池田勇人

第10回

第58~60代内閣総理大臣
池田勇人いけだはやと
1899年(明治32)~1965年(昭和40)

池田勇人肖像キリヌキ_01

Data 池田勇人

生没年  1899年(明治32)12月3日~1965年(昭和40)8月13日
総理任期 1960年(昭和35)7月19日~ 64年(昭和39)11月9日
通算日数 1575日
所属政党 自由民主党
出身地 広島県竹原たけはら吉名よしな町(旧吉名村)
出身校 京都帝国大学
初当選 1949年(昭和24) 49歳
選挙区 衆議院広島2区
歴任大臣 大蔵大臣・通産大臣・国務相
ニックネーム 失言大臣・放言大臣
墓  所 広島県竹原市の西方寺さいほうじ、東京都港区の青山霊園

初当選でいきなり大蔵大臣に!

日本の高度経済成長を成し遂げると同時に、日本の国際的地位の向上も果たしたのが池田勇人です。大蔵官僚から政界入りすると、1年生議員ながら第3次吉田茂よしだしげる内閣の大蔵大臣に抜擢ばってきされ、吉田の側近として経済政策を推し進めました。その後、大蔵・通産大臣などを歴任。1960年(昭和35)に総理になると「所得倍増計画」を中心政策として掲げ、目標を上回る成果をあげています。その結果、日本は先進国の仲間入りをすることとなりました。その象徴ともいえる1964年(昭和39)10月の東京オリンピック閉会式の翌日、病気(喉頭こうとうがん)療養のため退陣を表明しました。

池田勇人はどんな政治家か 池上流3つのポイント

1 数字に強い経済通

税務に精通していた池田は数字に鋭い勘をもっており、経済政策にも強い自負心がありました。吉田内閣の大蔵大臣時に大胆な財政金融引き締め政策を断行していますし、総理在任中の所得倍増計画も池田ならではの経済政策です。その一方、美術品の価値や演説の効果など、なんでも数字に置き換えて説明するくせがあり、周囲をうんざりさせることもあったそうです。

2 抜群の発信力

「経済は池田にお任せください」とか「月給を2倍にします」など、わかりやすい言葉で聴衆の心をとらえる抜群の発信力が、池田の魅力のひとつでした。しかし、その一方で失言が問題になることもありました。「貧乏人は麦を食え」とか「中小企業が破産してもやむを得ない」と発言し、ついには辞任に追い込まれています。実際は発言の趣旨が少し違うのですが、当時の新聞が強調して報道したことで、「池田は高姿勢だ」と国民の反発を買いました。

3 寛容かんよう忍耐にんたいの政治姿勢

豪放ごうほうな性格に加え、たび重なる失言で、高飛車たかびしゃな政治家だと見られていた池田には、総理に不適格だという声もありました。しかし、池田は自民党総裁選で勝利し、総理になります。そして、かつて「民主主義の基礎は時の政治的優位者の寛容と忍耐だ」と、米国財務長官シュナイダーから受けた教えにより、寛容と忍耐を政治姿勢として貫き、国民の支持を勝ち取ったのです。

池田勇人の名言

経済のことは
池田にお任せください。
― 自由民主党の新政策として「所得倍増計画」を発表後、街頭演説やテレビ討論会で発した言葉

国のためになるなら電信柱にすら
頭をさげるつもりで総裁そうさいになったのだ。

―総理就任後、「寛容かんよう忍耐にんたい」を政治理念に掲げた池田が周囲に語った言葉

国民各位にたいし、
まことにあいすまぬ気持ちで
いっぱいであります。
― 1964年(昭和39)10月25日、病院から出された辞意表明談話より

揮毫きごう

池田勇人揮毫_01

池田勇人書「経国済民けいこくざいみん
たけはら美術館蔵
「経済」の語源となった言葉で、「経世済民」に同じ。「国をおさめ、民を救う」ことを意味する。池田が大蔵大臣時代の作。

人間力にんげんりょく

◆ 抜群の記憶力

大蔵省に入った池田は、持ち前の記憶力で数字の丸暗記に取り組んだ。暗記していくうちに数字の面白さ、数字の持つ意味を知り、数字への関心を高めた。石炭・電力・米などの生産量から物価指数、それぞれの推移など、常にあらゆる数字が頭の中にあり、それらを組み合わせることで日本経済の将来像を明確に見抜く力を養い、企業の進むべき方向性を示すことができた。

◆ブレーンの叡智えいちを活用

池田は読書家ではなく、本を読み通すことによって知識を得るタイプではなかった。池田の知見の源泉は、さまざまな分野の専門家・知識人や、財界・官界の有力者からのものだった。これらの多くの人々を周辺に集め、直接意見を聞くことによって、進むべき方向性を見いだしていったのだ。池田のすごみは、仕入れた多様な知識に引きずられることなく、最後は自分で決断を下したことだった。

◆演説の名手

総理時代、わかりやすい言葉で、聴衆の感情に訴えかける池田の演説は卓越したものだった。組閣後初の国会では、直前にテロに倒れた社会党委員長の浅沼稲次郎あさぬまいねじろう追悼ついとうする演説を行なっている。「いまその人は亡く、その声もやみました。私はだれに向かって論争を挑めばよいのでありましょうか」。切々と語る池田の演説には、野党社会党議員の中にも涙する者があったという。

(「池上彰と学ぶ日本の総理3」より)

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