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【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<12>

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の12回目。悪役となって安保改定を強行し、対等な日米関係を目指した、「岸信介」について解説します。

日本の総理_12

 

第12回

第56・57代内閣総理大臣
岸信介きしのぶすけ
1896年(明治29)〜1987年(昭和62)

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Data 岸信介

生没年  1896年(明治29)11月13日~1987年(昭和62)8月7日
総理任期 1957年(昭和32)2月25日~1960年(昭和35)7月19日
通算日数 1241日
所属政党 自由民主党
出身地  山口県田布施町たぶせちょう(旧田布施村)
出身校  東京帝国大学法学部
初当選  1942年(昭和17) 45歳
選挙区  衆議院山口2区
歴任大臣 商工大臣・国務大臣・外務大臣
ニックネーム 昭和の妖怪
墓  所 山口県田布施町の岸家裏山、静岡県小山町おやまちょうの冨士霊園

唯一、兄弟で総理になった大物政治家

吉田茂よしだしげるの政治をアメリカ追従ついじゅう型と批判し、日本を一人前の独立国家へ転換しようとしたのが岸信介です。そのためにかかげた最大の課題が、日本とアメリカの関係をより対等なものに改めること、すなわち日米安全保障条約の改定でした。新安保条約は大規模な反対運動のなかで成立しましたが、これが良くも悪くも、その後の国際社会における日本の針路を決定づけたといえます。
岸には政治資金にまつわるうわさや、政界の黒幕というイメージがついてまわりますが、近年は、その外交や内政における業績が、戦後日本の安定に寄与したという再評価がなされています。

岸信介はどんな政治家か 池上流3つのポイント

1 保守合同の仕掛け人

公職追放されていた岸が政界に復帰した1953年(昭和28)、保守政党は吉田茂率いる自由党と、改進党を中心とする勢力に2分されていました。反共産主義の信念をもつ岸は、内外の共産勢力の台頭に対抗するには保守による安定政権が必要と考え、保守勢力の結集をはかります。こうして1955年(昭和30)、自由民主党が誕生することとなりました。

2 安保改定を強行突破

「吉田内閣が締結ていけつした日米安保条約は不平等で、早急に改定すべき」と、岸は考えていました。総理就任後にアメリカと交渉を重ね、「日米が共同して日本を防衛する」ことを織りこんだ改定にこぎつけましたが、アメリカの戦争に日本が巻きこまれるという懸念けねんが国内で広がり、空前の反対運動へ発展します。岸は採決を強行し、新安保条約はデモ隊の怒号どごうが国会を取り囲むなか成立しました。

3 昭和の妖怪ようかい

岸は退陣後も長く政界に影響力を保ちつづけ、歴代政権の命運を左右する黒幕と見なされました。自らの人脈を使って、沖縄返還や日韓国交回復の実現に協力したともいわれます。いっぽうで、利権をめぐる日韓癒着ゆちゃくや、FX(次期主力戦闘機)選定に関わる疑惑などもあり、謎の多い大物政治家のイメージから、「昭和の妖怪」とよばれるようになりました。

岸信介の名言

こうしたらいいと気がついた時には、君に意見を言う。それは虚心坦懐きょしんたんかいに聞いてくれ。しかし、それを採用するかしないかは、君の総理としての見識なんだ……
― 後継の池田勇人いけだはやと総理にかけた言葉(『岸信介の回想』より)

男兒だんじ生きて国家社会のためくすことあたはざれば、すべからく死すべし。碌々ろくろく生をたのしむことは断じてこれを欲せざるなり
男は生きているかぎり、国や社会のために尽力することができなければ、生きている価値はない。役にも立たず、ただ人生を楽しむような生き方は、私は絶対に望まない。
―「断想録」(巣鴨すがも獄中にて)より

岸信介の揮毫

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士不可以不弘毅しはもってこうきならざるべからず 丙辰秋ひのえたつあき 信介」
憲政記念館蔵
士(道を志すもの。リーダー)は、度量が広く意志が強固でなければならない。『論語』にある曽子(そうし)の言葉。岸が80歳を迎える1976年(昭和51)秋に揮毫した。

岸信介の人間力

◆「両岸」で党をまとめる

判断のむずかしい問題について、岸は賛成・反対の意志を明言せず、風見鶏かざみどり的な対応を取ることも多かったので、よく「両岸」と揶揄やゆされた。しかし岸は、「党内をまとめていくのに、いっぽうの『岸』だけ好いて、他方の『岸』を押さえつけるわけにはいかない」と語り、さまざまな立場の人々を調和させることが、難題を解決するには必要なのだと考えていた。

◆ 理想の実現にはパワーと資金力が必要

「政治は力であり金だ。力のある者のみが主導権を確立でき、保守統一を遂行できるのだ」とは、戦後、政界に復帰した岸が、またたく間にその中枢ちゅうすうにたどりつく過程でらした言葉として伝えられている。自分の理想や考えを実現しようとすれば、その推進のために必要な権力と資金力が伴わなければだめだ、というのが岸の政治リーダーとしてのスタンスだった。

清濁せいだくあわ

岸は人の好き嫌いがあまりなかったといわれる。ごろつきのような面々とも平気でつきあうので、「あんな手合いとなぜつきあうのか」と周囲が心配すると、岸は「人とのつきあいは潔癖けっぺきだけではダメだ。相手の本質を見抜かなければ」と答えたという。多彩な人脈を力に変えた岸ならではの、「人のかし方」であった。

(「池上彰と学ぶ日本の総理5」より)

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