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【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<27>

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の27回目。石材店の長男に生まれ、気鋭の外交官として活躍した「広田弘毅」について解説します。

広田弘毅

第27回

第32代内閣総理大臣
広田弘毅ひろたこうき
1878年(明治11)~1948年(昭和23)
広田弘毅肖像_01

Data 広田弘毅

生没年月日1878年(明治11)2月14日~1948年(昭和23)12月23日
総理任期 1936年(昭和11)3月9日~37年(昭和12)2月2日
通算日数 331日
出生地 福岡市中央区天神てんじん(旧福岡県那珂なか鍛冶町かじまち
出身校  東京帝国大学法科大学
歴任大臣 外務大臣
幼  名 丈太郎じょうたろう
墓  所 福岡市博多はかた区の聖福寺しょうふくじ

広田弘毅はどんな政治家か

1 え抜きの外交官

広田は青年時代に外交官になることを決心しました。東京帝国大学法科大学に進み、外交官領事官試験にトップ合格します。外務省の同期には、戦後に総理大臣になった吉田茂よしだしげるがいます。
広田は中国、イギリス、アメリカ、オランダ、ソ連などに赴任して外交の実践を学び、斎藤実さいとうまこと内閣、岡田啓介おかだけいすけ内閣で外務大臣に就任しました。広田の外交は「協和外交」として評価されましたが、総理になると軍部の介入もあって、外交姿勢は硬化しました。

2 二・二六事件の直後、総理に抜擢ばってき

陸軍の青年将校らによる政府要人の暗殺事件「二・二六事件」は、首都東京を震撼しんかんさせました。暗殺から幸いにも逃れた岡田啓介総理は辞任し、後継として貴族院議長の近衛文麿このえふみまろ組閣そかく大命たいめいが下ります。しかし、近衛は健康に自信がないといって辞退しました。そこで、岡田内閣で外相をつとめた広田に白羽しらはの矢が立ちます。こうして広田は思いがけず総理になりましたが、世間では拾い物のような総理就任を、「ひろった内閣」と揶揄やゆしました。

3 A級戦犯で文官唯一の絞首刑こうしゅけい

終戦後に広田は戦犯容疑で逮捕され、極東国際軍事裁判(東京裁判)にかけられます。広田は、軍部に積極的に追随ついずいし日中戦争を推し進めた容疑をかけられたのです。このとき広田は証人台に立たず、一切の抗弁をしないまま、死刑判決を受けました。
処刑されたA級戦犯7名のうち、文官は広田ひとりで、あとの6人は軍人です。広田の死刑判決はあまりにも重い、という同情論が当時からありました。ゆえに広田は、「悲劇の宰相さいしょう」と呼ばれることがあります。

広田弘毅の名言

外交に日曜なし
― 外務省勤務中、同僚らに休日はどう過ごすか聞かれて

日本は断じて中国本土に手を付けてはならぬ。
また欧米の勢力範囲をおかすべきでない。
それは日本の対岸に欧米列国を割拠かっきょせしめ、
彼等に一致して日本に当たらしむるようになり、
日本を危殆きたい(危険のこと)におちいらしむるところがあるからだ。
― 1919年(大正8)、首席書記官として米国に赴任するときの言葉

風車かざぐるま 風の吹くまで 昼寝かな
― 1926年(昭和1)、オランダ公使に任じられ、左遷させんうわさされたおりに詠んだ俳句

戦争を止められなかった責任が私にはある

― 戦犯として逮捕される5日前に後輩に語った言葉

広田弘毅の揮毫

広田弘毅揮毫_01
國華こっか 弘毅」
福岡県立修猷館高等学校同窓会蔵

国華とは、国の栄光や名誉のこと。広田が1898年(明治31)に卒業した修猷館には、揮毫の書が数点伝わる。広田は幼少時より書道の腕前にすぐれ、石材店を営む父の徳平は、息子の下書きをもとに石に字を刻むこともあったという。

広田弘毅の人間力

◆史上最高の外務省スタッフを形成

斎藤実さいとうまこと内閣の外務大臣となった広田は、省内の派閥対立を解消すべく、思い切った人事を断行した。内部の確執から退官していた有田八郎ありたはちろう(のち広田内閣で外相)をベルギー大使として復帰させたり、佐藤尚武さとうなおたけ(のち林内閣で外相)をフランス大使に抜擢ばってきしたりする。
こうして広田外相当時の外務省は、創立以来、もっとも人材がそろった時代と評された。広田は日中関係改善に奔走ほんそうし、米英の大使に、「これほど精力的に動く外務大臣は知らない」と言わしめた。

◆ 責任をすべて引き受ける

極東国際軍事裁判(東京裁判)が開廷される前、広田は面会した家族に、「これは裁判ではない。誰がどうした、どう言ったなどということは言わないつもりでいる」と語ったという。
裁判が始まり、軍部への広田の協力的な態度が中国侵略を決定的にしたと追及されたとき、すでに死亡していた陸軍大将の寺内寿一てらうちひさかずらに責任を押しつければいいと入れ知恵する人もいた。しかし広田は、「(当時外相や総理大臣をつとめた)自分が責任をとらねばならない」と言い張った。死刑判決ののちも、広田は「雷に打たれたようなものさ」と飄々ひょうひょうとしていたという。

(「池上彰と学ぶ日本の総理26」より)

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