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【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<36>

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の36回目。緊縮財政と軍縮に取り組んだ「浜口雄幸」について解説します。

浜口雄幸

第36回

第27代内閣総理大臣
浜口雄幸はまぐちおさち
1870年(明治3)〜1931年(昭和6)

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Data 浜口雄幸

生没年月日 1870年(明治3)4月1日~1931年(昭和6)8月26日
総理任期   1929年(昭和4)7月2日~1931年(昭和6)4月14日
通算日数   652日
出生地  高知市五台山唐谷ごだいさんからたに(旧土佐とさ長岡ながおかいけ村唐谷)
出身校  帝国大学法科大学
歴任大臣 大蔵大臣、内務大臣
墓  所 東京都港区の青山あおやま霊園

浜口雄幸はどんな政治家か

緊縮財政と軍縮に取り組む

浜口雄幸が取り組んだのは、長引く不況の打開と軍縮でした。金解禁とロンドン海軍軍縮条約というむずかしい課題に命をかけて挑み、実現へと導いたのです。その風貌ふうぼうから「ライオン宰相さいしょう」というあだ名がつけられました。酒席の会合を嫌い、政治に取り組むまじめ一徹いってつの姿勢が、国民の幅広い支持を集めましたが、凶弾きょうだんに倒れ、重傷を負いました。

浜口雄幸 その人物像と業績

右翼の凶弾に倒れたライオン宰相

持ち前の頑固がんこさから官僚時代は左遷させんき目にあうが、政治家に転身して本領ほんりょうを発揮。総理となって、金解禁きんかいきん、海軍軍縮に命をかける。

狙撃そげき直後につぶやいた「男子の本懐ほんかい

1930年(昭和5)11月14日の朝、浜口雄幸総理は、「特急つばめ」に乗車しようと、東京駅を訪れていた。
難航なんこうしていた新年度の予算編成がようやく決着し、岡山で行なわれる陸軍大演習の視察に向かうところだった。
浜口は1号車をめざしてホームを歩いていたが、乗降口の数メートル手前で突然、銃声が響いた。銃弾が浜口の腹部に命中したのだ。
犯人は右翼団体の青年で、その場で取り押さえられた。
浜口の意識はしっかりとしており、苦しげな息の下で「男子の本懐だ。予算の閣議も片づいたあとだからよかった」とつぶやいた。
経済再建のための金解禁を断行し、ロンドン海軍軍縮条約の批准ひじゅんに抵抗する枢密院すうみついんに一歩も譲らずに屈服させるなど、内閣の掲げた課題が一応の成立をみたことへの安堵感あんどかんも、そこにはあったのかもしれない。
浜口は一命を取りとめたが、この時の傷がもとで9か月後に世を去ることとなる。
この事件は、軍の意向を退けて軍縮条約を批准した内閣への反発が招いたが、同時に政党政治に退場が迫られる時代の到来を告げる、象徴的なできごとでもあった。
それは、政府要人が次々と暗殺の標的となった五・一五事件、二・二六事件へと連なる前兆であり、日本が軍事国家へと変貌へんぼうをとげていくきっかけとなったのである。

●不遇だった青年官僚時代

1870年(明治3)4月1日、浜口雄幸は土佐とさ長岡ながおかいけ唐谷からたに(現高知市)に、水口胤平みなくちたねひらと繁子の3男として生まれた。土佐藩の足軽あしがるであった胤平は御山方おやまかたとして山林を管理していたが、維新いしん後は官吏となり山林官をつとめていた。
雄幸は幼少から温厚でまじめな性格だった。学校では休み時間も本を手放さない努力家で、学業成績は群を抜いていた。
高知中学を卒業すると、雄幸は請われて浜口義立よしなり家の養子となった。その後、大阪の第三高等中学校をへて帝国大学法科大学政治学科に入学、1895年(明治28)に卒業し、大蔵省へ入省した。
順調にエリートコースを歩んで官僚となった浜口だったが、ここから長く不遇ふぐうの時代をすごす。頑固な性格がわざわいして上司と衝突しょうとつし、地方を転々とする生活に入ったのである。山形・名古屋なごや松山まつやま・熊本と転勤を重ねるうちに、たちまち8年が過ぎようとしていた。
地方暮らしでも「ロンドンタイムズ」を購読こうどくするなど勉強を怠らなかった浜口だが、心配した同期の友人たちが主税局内国税課長だった若槻礼次郎わかつきれいじろうに働きかけるなどして、浜口の東京転任がようやく実現した。
帰京した浜口は、まもなく専売局勤務となり、1907年(明治40)専売局長官を命じられた。

●政党政治家へ転身

官僚人生を歩んでいた浜口を政界に引き入れたのは、後藤新平ごとうしんぺいだった。後藤は早くから浜口に目をかけていた。
1912年(大正1)第3次桂太郎かつらたろう内閣で逓信ていしん大臣となった後藤は、浜口に逓信次官への就任を要請した。浜口はこれに応じ、大蔵省を辞め、逓信次官となった。
ところが、桂内閣はわずか2か月で退陣となり、浜口は辞職を余儀なくされた。
その後、桂を中心に立憲同志会が結成されることになり、「政党政治家として及ばずながら国のためにつくしたい」と考えていた浜口は後藤のすすめで入党し、政治家として生きていく決意をしたのである。
同志会は、桂の急死、後藤の脱党と、その船出から波乱含みだったが、浜口は党の総理(党首)に就任した加藤高明かとうたかあきから評価され、党のナンバーツーであった若槻の後押しもあって、同志会の要職を占めるようになる。
1914年(大正3)、同志会を後ろだてにして第2次大隈重信おおくましげのぶ内閣が成立し、蔵相となった若槻のもと、浜口は大蔵次官に就任した。翌年行なわれた総選挙では、三菱みつびしからの後援を取りつけることができ、浜口は当選を果たし、衆議院議員となった。
しかし、大浦兼武おおうらかねたけ内相の選挙干渉が発覚し、浜口は加藤、若槻らとともに政権を離れる。その後、大隈内閣は総辞職したが、その与党であった同志会、中正会などが合同し、1916年(大正5)10月、憲政会を結成した。

●蔵相に就任し不況打開に取り組む

憲政会では、加藤高明が総裁をつとめることとなり、浜口は若槻らとともに総裁に次ぐポストである総務に就任した。
ところが、その翌年の総選挙で浜口は落選してしまう。その2年後には補欠選挙で議員に返り咲くが、官僚出身の政治家の多くが爵位しゃくいを得て貴族院議員になるのに対し、浜口は衆議院議員にこだわりつづけた。
「政党生活をする以上は衆議院に議席を置くのが正当だ」と浜口は述べ、国民の代表となって政治にたずさわるべきだと考えたのである。
大隈に代わり総理となった寺内正毅てらうちまさたけが退陣すると、立憲政友会の原敬はらたかしが内閣を組織するが、原が暗殺され高橋是清たかはしこれきよ内閣も短命に終わる。以後は政党に基礎を置かない内閣が続き、憲政会は長く野党の立場にとどまった。
1924年(大正13)、第2次護憲ごけん運動が起こると、総選挙で憲政会が第1党となった。そして、政友会、革新倶楽部とともに「護憲三派」を形成し、加藤内閣が発足する。
このとき、浜口は大蔵大臣として初入閣を果たした。当時の日本経済は、第1次世界大戦後の不況に関東大震災による打撃が重なり、一層厳しい状況へと追いこまれていた。
浜口は就任後の演説で「消費に対する政府および国民の一大節制を断行する」と、強い調子で緊縮財政の必要性を訴えた。この緊縮政策で経済の立て直しをはかろうとする方針は、次の若槻内閣、そして自らが首班となる内閣へと貫かれていく。

●議会民主主義確立めざし民政党総裁に

ところが、加藤内閣での3派の協調はだんだんと行きづまりを見せはじめる。
田中義一が政友会総裁に就任したことによって、憲政会と政友会の間に溝が生じると、浜口が取り組んだ税制整理問題で両党の決裂は決定的となった。
浜口は、新税の回避や中流以下の国民の負担軽減、地租ちそ・営業税改革などを柱とする税制整理案を提示したが、これに政友会の意見が反映されていないとして、紛糾したのである。浜口が一歩も引かないため、連合は解消となった。
その結果、憲政会単独での改造内閣が発足した。難しい政権運営を強いられた加藤は、心労が重なって肺炎となり、心臓病も併発してまもなく死去した。
内閣を引き継いだのは、若槻だった。浜口は引きつづき蔵相をつとめ、懸案だった税制整理案は成立をみるが、金融恐慌への対応の不手際で第1次若槻内閣は退陣となった。
1927年(昭和2)4月、そのあとを受けて政友会の田中義一が内閣を組織すると、憲政会は政友本党に急接近し、合同して立憲民政党を結成した。
「国民の総意による責任政治を徹底し、議会中心主義を確立する」という、当時としては画期的な理念を掲げた民政党の総裁には、全会一致で浜口が内定した。
ところが、浜口は健康に不安があるとしてがんとして就任を固辞した。そこで、浜口とは大阪の第三高等中学校以来の同級生で、加藤・若槻両内閣で外相をつとめた幣原喜重郎しではらきじゅうろうが、病気療養中の浜口の別荘を訪れ、説得にあたった。
「ぼくは受けないよ」と就任を拒む浜口に、「のっぴきならない決心で来たんだ。きみは受けなきゃならん!」と、幣原は強い口調で受諾じゅだくを迫った。
その後、若槻の説得もあり、同年6月、浜口は民政党の初代総裁に就任した。党の顔となった浜口は、ジャーナリズムに好意的に迎えられた。その風貌ふうぼうやまじめな性格がコミカルに紹介され、のちに「ライオン宰相」と親しまれるイメージができあがっていった。

●病をおして登院とういんし国民との約束を果たす

発足直後から強硬外交を展開しはじめた田中内閣を、浜口は強く批判していく。
「中国人の国民的努力に対しては、外部よりみだりに干渉すべきではありません」
浜口は、中国における日本の権益を守るべきことは認めつつ、内政不干渉を唱えたのである。山東さんとう出兵についても、「何ら方策をつくさず突如出兵する措置そちに出たのは軽率だ」と非難し、協調外交への転換を迫った。
一方、内政についても、公債こうさい乱発などの積極財政策や、財源確保のない地租の地方委譲いじょう、選挙干渉や金権の横行などを攻撃した。
しだいに追いつめられた田中内閣は、関東軍の一部が暴走して引き起こした張作霖ちょうさくりん爆殺事件への対応を誤り、内閣総辞職にいたった。
1929年(昭和4)7月2日、ついに浜口に組閣の大命が下ることとなった。
浜口は、不退転の覚悟で自ら唱えてきた政策に取り組み、1930年、金解禁、さらに枢密院すうみついん横槍よこやりに屈せず、海軍軍縮条約という難題を成立に導いた。ところが、大仕事をなしとげた浜口を凶弾が襲った。犯人は右翼団体「愛国社あいこくしゃ」の佐郷屋留雄さごうやとめおといった。負傷後の手術は成功したが、浜口は長期にわたり闘病生活を送ることとなったのである。
1931年(昭和6)2~3月、浜口は傷がえないまま登院した。「会期中に必ず国会に出る」と約束していたからだった。
「これは国民に対する約束だ。これを守らなければ、国民は何を信じたらいいのか。自分は死んでもいいから国会に出る」と浜口は家族に語っていた。
無理がたたって容体が悪化し、浜口は総理を辞任、8月26日世を去った。61歳だった。

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寄贈されたライオン像と浜口。写真/朝日新聞社

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加藤高明内閣に初入閣
1924年(大正13)6月11日、加藤高明の護憲三派内閣が成立し、皇居東御車寄せに勢揃いした閣僚の面々。右端が大蔵大臣として初入閣した浜口。左へ宇垣一成うがきかずしげ・若槻礼次郎・加藤高明・江木翼えぎたすく高橋是清たかはしこれきよ犬養毅いぬかいつよし財部彪たからべたけし野田卯太郎のだうたろう横田千之助よこたせんのすけ。写真/共同通信社

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ロンドン海軍軍縮会議へ向かう全権の壮行会
1929年(昭和4)11月25日、首相官邸で催された。右から4人目が浜口総理。その右隣が若槻首席全権、左隣が財部海相。
写真/共同通信社

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