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【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<41>

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の41回目。初めての社会党出身総理「片山哲」について解説します。

片山哲

第41回

第46代内閣総理大臣
片山哲かたやまてつ
1887年(明治20)~1978年(昭和53)
片山哲メインキャッチ
写真/共同通信社

Data 片山哲

生没年月日 1887年(明治20)7月28日~1978年(昭和53)5月30日
総理任期  1947年(昭和22)5月24日~48年(昭和23)3月10日
通算日数  292日
出生地    和歌山県田辺たなべ市(旧西牟婁にしむろ郡田辺町)
出身校    東京帝国大学法科大学独法科
選挙区   衆議院神奈川3区
墓  所  神奈川県藤沢ふじさわ市の大庭台おおばだい墓園

片山哲はどんな政治家か

初の社会党出身総理

弁護士の父、クリスチャンの母の影響で、片山哲自身もキリスト教信者として清廉潔白せいれんけっぱく、弁護士として謹厳実直、権謀をきらい正論をむねとして人望がありました。貧困者のために「1件1円」の簡易法律相談所も開設しています。日本社会党初代委員長に選出されて、総選挙で勝利し組閣。一方で果断かだんさを欠き、指導力と統率力不足も指摘されました。

片山哲 その人物像と業績

初めての社会党出身総理――未完に終わった革新政権

誕生したばかりの日本社会党を率いて、
新憲法施行直前の総選挙で第1党となったのは、はたして時代の要請だったのか。
片山哲内閣は、民主主義の「青い鳥」を探して戦後復興に挑んだ。

●弁護士をこころざ

片山哲の父省三しょうぞうは弁護士だったが、儒教じゅきょう君子道くんしどうを実践する謹厳実直な人物であった。酒も煙草たばこもやらず、3度の食事以外は間食もせず、お茶も飲まなかったほどである。一方、母の雪江ゆきえ敬虔けいけんなクリスチャンで、みずからも布教するという熱心さであった。女性の地位向上や幸福をテーマにした婦人雑誌『女学雑誌』を創刊号から愛読していた。
そんな両親のもと、片山は1887年(明治20)7月28日、和歌山県西牟婁にしむろ田辺たなべ町(現田辺市)に長男として生まれた。父から「清廉せいれん」「悟り」「足るを知る」など、おのれを修める道を教え込まれ、母からは、キリスト教的な「恵まれない人々に対する強い愛」「奉仕の精神」を学んだ。
1908年(明治41)、片山は東京帝国大学法科大学独法科へ入学する。東大キリスト教青年会(東大YMCA)の寄宿舎へ入るが、ここで片山は、のちに社会党の盟友となる鈴木文治すずきぶんじや政治学者の吉野作造よしのさくぞうの知遇を得て、政治・社会思想の影響を受ける。なかでも、片山の将来を決定づけたのが、「犯罪はこれ社会の余弊よへい(社会的弊害)なり」と説く牧野英一まきのえいいち教授の講義であった。片山は「私の社会運動、社会事業方面に進んで行こうという心持に、理論的学問的根拠を与えてくれたのは、実に牧野先生の主観主義刑法である」と語っている。この出会いにより、片山は父と同じ弁護士の道を歩もうと決めたのである。

●弁護士から政界へ

1912年(明治45)、東大を卒業した片山はいったん郷里の田辺に戻り、父省三のもとで法律の実務を勉強し、経験を積み重ねた。1917年(大正6)にふたたび上京し、翌年、同窓の星島二郎ほしじまにろうと東大YMCA寄宿舎の1室を借りて、念願だった貧困者のための簡易法律相談所を開設した。この相談所は、吉野作造の宣伝のおかげでたいへん繁盛した。
1920年(大正9)には事務所を日比谷ひびやに移し、「中央法律相談所」と改称、官僚主義に反対の立場をとる『中央法律新報』という雑誌を創刊した。このなかで片山は、死刑制度・公娼こうしょう制度・戸主こしゅ制度・小作こさく制度の廃止や治安警察法の撤廃などの持論を展開する。また、その翌年から5年間、東京女子大学の講師となり、封建的ほうけんてき家族制や家督かとく相続制の廃止、結婚法の制定、婦人参政権の必要性などを講義した。片山がとくに女性の地位向上に務めたのは、多分に母雪江の影響があったものと思われる。
1924年(大正13)、片山らは無産むさん政党準備会として政治研究会を結成。日本社会主義運動の先駆者である安部磯雄あべいそおが中心となり、社会主義政党結成の準備が始められた。無産とは、財産を持たない労働者や農家のことで、彼らの利益を目的とする合法政党を、当時非合法とされた日本共産党と区別して、「無産政党」と呼んだのである。
1925年(大正14)に普通選挙法が公布されると、無産運動が活発化する。翌年12月、勤労者のための政党として、安部を党首とする社会民衆党が成立し、片山は書記長となる。2回目の普通選挙である1930年(昭和5)2月の衆議院総選挙で、片山は神奈川2区(のち3区)から立候補して初当選した。
このころ、無産政党は離合集散を繰り返していたが、1932年(昭和7)7月、片山が所属する社会民衆党は全国労農ろうのう大衆党と合同して、安部を委員長とする社会大衆党が成立。片山は、中央執行委員および労働委員長となる。1936年(昭和11)2月の総選挙で、社会大衆党は安部・鈴木・片山以下18名が当選し、全国的政党の地位を獲得することとなった。
しかし、翌年から始まった日中戦争によってしだいに軍部の力が強まり、1940年(昭和15)10月に大政翼賛会たいせいよくさんかいが成立すると、体制に迎合した各政党は翼賛会の傘下さんかに入り、戦前の政党政治は終焉しゅうえんを迎えた。大政翼賛会に加わらなかった片山は、1942年(昭和17)4月の翼賛選挙に非推薦ひすいせんで立候補するが、落選してしまう。

●日本社会党を率いる

終戦後、GHQの主導で民主化政策が進められると、1945年(昭和20)11月には、社会主義運動家の大同団結により、日本社会党が結成された。委員長空席のまま片山は書記長に就任、翌年9月に初代委員長となった。日本社会党は、政治的には「民主主義」、経済的には「社会主義」、国際的には「平和主義」を主張。1947年(昭和22)4月、新憲法施行目前の総選挙に臨み、吉田茂よしだしげるの自由党を抑えて第1党に躍り出た。戦後復興の立ち遅れから、国民は政権交代を選んだのである。
しかし、第1党になったとはいえ、社会党は過半数を制していたわけではなかった。片山は自由・民主・国民協同こくみんきょうどうとの4党連立を提案。5月23日、衆参両院はほぼ満場一致で片山を第46代内閣総理大臣に指名する。しかし、社会党左派をきらう自由党の離脱により3党連立内閣となった。6月1日に組閣人事を終えた片山は、その翌日、ラジオ放送で、「インフレの克服、生産復興のために、このうえなお耐乏の生活をつづけていただきたい」と国民に訴えた。
片山内閣の目玉政策は、日本のエネルギー産業の核となっていた石炭の増産と、炭鉱の国有化を意図した「臨時石炭鉱業管理法」を成立させることであった。国家管理による石炭増産は社会主義政策の一環であったが、これに反発した炭鉱主が多額の献金によって政界工作を画策。野党自由党はもとより与党民主党からも強硬に反対され、修正を加えられた法案はほとんど骨抜きの状態になってしまった。この妥協だきょうを不満とする社会党左派が内閣との対立を強め、衆院予算委員長であった左派の鈴木茂三郎すずきもさぶろうが政府予算案を否決に持ち込むに及んで、1948年(昭和23)2月10日、片山内閣は総辞職した。

●民主主義の「青い鳥」を求めて

総理辞任後の1949年(昭和24)1月、片山は総選挙で落選し、社会党も議席数が3分の1に激減する大敗を喫した。「民主主義、平和主義を生かしてくれる青い鳥を探しに、慣れない空の旅を強行している。青い鳥はどこかにいるに違いない」。1949年5月末から、初の外遊に出かけた折につぶやいた片山の言葉である。翌1950年(昭和25)、片山は社会党委員長を辞した。
1959年(昭和34)12月、西尾末広にしおすえひろらと日本社会党を離党し、翌年、民主社会党(民社党)を結成。1963年(昭和38)11月の総選挙に立候補するが落選し、政界引退を決意、1965年(昭和40)には民社党からも離党する。このとき片山は、「歳をとっても隠居せず、貧しくても官位を求めず、造化ぞうか(天地自然)の力を求めるのみ」と白居易はくきょい白楽天はくらくてん)の詩を引用し、高い理想をもちつづけることの大切さを説いた。東西の古典に通じ、『大衆詩人白楽天』などの著作を著わし、「文人宰相ぶんじんさいしょう」と称された片山にふさわしい。
その後、キリスト者世界連邦協議会長、政界浄化・公営選挙連盟会長などを務め、1978年(昭和53)5月30日、神奈川県藤沢ふじさわ市の自宅で90歳の大往生をとげた。

自宅でくつろぐ片山哲1
1950年(昭和25)1月、自宅の縁側でくつろぐ片山哲。写真/毎日新聞社

社会党第1党に1
社会党が第1党となる
社会党が1947年4月25日の総選挙で第1党となり、党本部で万歳三唱する片山哲。左派は単独内閣を主張したが、片山は連立内閣を決断。この内閣は日本初の社会党系内閣として「日本にとって銘記すべき歴史的な内閣の誕生」と評される一方、新聞は「複雑な政局の前途」などと書き立てた。写真/毎日新聞社

田中角栄総理に公職選挙法改正要望書を渡す片山
公職選挙法改正を求める片山哲
片山は、金権選挙は腐敗政治の要因として、早くから選挙制度改正による政界浄化を訴えてきた。1950年(昭和25)制定の公職選挙法はたびたび改正されてきたが、いまだ多くの問題点を抱えている。写真は、1972年(昭和47)10月、田中角栄たなかかくえい総理に選挙制度改正の要望書を提出する片山哲。写真/時事通信社

(「池上彰と学ぶ日本の総理30」より)

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