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【池上彰と学ぶ日本の総理SELECT】総理のプロフィール<42>

池上彰が、歴代の総理大臣について詳しく紹介する連載の42回目。戦後の復興を国際的視点で見据えた「芦田均」について解説します。

芦田均

第42回

第47代内閣総理大臣
芦田均あしだひとし
1887年(明治20)~1959年(昭和34)
芦田均メインキャッチ
写真/共同通信社

Data 芦田均

生没年月日 1887年(明治20)11月15日~1959年(昭和34)6月20日
総理任期  1948年(昭和23)3月10日~10月15日
通算日数  220日
所属政党  民主党
出生地    京都府福知山ふくちやま市(旧天田あまた中六人部なかむとべ字宮あざみや
出身校    東京帝国大学法科大学仏法科
選挙区   衆議院京都2区
歴任大臣  厚生大臣・外務大臣
墓  所  神奈川県横浜よこはま鶴見つるみ区の総持寺そうじじ

芦田均はどんな政治家か

戦後復興を国際的視点で推進

芦田均は、エリートの外務官僚出身ながら、幣原喜重郎や吉田茂よしだしげるらと違って、早くに政治家に転身、自由主義の政党政治家として評価されています。戦前は反軍的立場で活動し、戦後は日本の復興を国際的視点で見据みすえました。新憲法草案に自衛力保持を留保する修正を加えたことでも知られています。昭和電工しょうわでんこう贈収賄ぞうしゅうわい事件で総理を辞任しました。

芦田均 その人物像と業績

外交官から政治家に転身、自由主義的議会人の栄光と挫折ざせつ

夏目漱石なつめそうせき門下につらなるという異色の政治家である。
東京帝国大学の4年生で外交官試験に合格し、
赴任したロシアは革命の直中ただなかにあった。
収賄しゅうわい疑惑で投獄されるなど、栄光と苦汁くじゅうに満ちた人生をたどる。

●学生時代の文芸活動

芦田家は、明治維新のころは丹波たんば綾部あやべ藩の山裏組やまうらぐみ14か村を束ねる大庄屋おおじょうやであった。芦田均の父鹿之助しかのすけは、板垣退助いたがきたいすけの自由民権運動に賛同し、1890年(明治23)7月、国会開設時の第1回総選挙で立候補するが落選。その後、1904年(明治37)の総選挙で初当選し、衆議院議員を1期務めている。
芦田均は、1887年(明治20)11月15日、京都府天田あまた中六人部なかむとべ字宮あざみや(現福知山ふくちやま市)に3男3女の次男として生まれた。5歳のときジフテリアにかかり、家族の献身的な看病で全快するが、実母のしげ、姉のはる・よしの3人が感染して命を落としてしまった。のちに「一番に悔いの多い時代」と書き記したように、このことは芦田の心に深い傷跡を残した。
中学時代の芦田は、本を読んだり、文章を書くのが好きな文学少年であった。同人誌を真似て雑誌を出したり、詩歌しいかんだりしている。とくに弁論は得意とするところで、子どもながら政治に関心を持ち、代議士の演説会などにもたびたび顔を出していた。
1904年、芦田は東京の第一高等学校に進学。当時の校長は、農学者・哲学者・教育者として名高い新渡戸稲造にとべいなぞうで、芦田は新渡戸のリベラリズム(自由主義)の影響をうけることになる。魅力ある教育者と明るく自由な校風が、芦田のなかに自由主義の気風を吹き込んでいた。
1907年(明治40)、東京帝国大学法科大学仏法科に入学した芦田は、文芸同人雑誌の第2次『新思潮しんしちょう』に寄稿し、夏目漱石の門下生たちとともに新しい文学運動に参加していた。「安倍能成あべよししげ阿部次郎あべじろう茅野蕭々かやのしょうしょうなどの先輩が夏目先生を囲んで文学論を闘わしていた。……私は大抵たいていこの会合に出席した」と後年述べている。『新思潮』での経験は芦田の文筆の才にみがきをかけ、一高以来の弁論部での活動は、日本の政治家のなかでも数少ない雄弁家へと成長させた。

●外交官としての日々

東大在学中の1911年(明治44)9月、芦田は外交官試験に合格、翌年8月に外務省に入り、外交官補に任じられる。「丹波の中学にいたころから一貫した念願」がかなったのである。1914年(大正3)4月、芦田は1年8か月の本省勤務をへて、ロシアの首都ペテルブルグに赴任ふにんした。
その3か月後に第1次世界大戦が勃発ぼっぱつ。さらに1917年(大正6)にロシアで2月革
命・10月革命が続いて起こり、ロマノフ王朝下のロシア帝国が崩壊。ボリシェビキ(社会主義左派)下の社会主義国ソ連となった。このロシア革命の過程を身近に見聞した体験は、外交官として得がたいものであった。
翌1918年(大正7)1月に帰国した芦田は、3月28日、学生時代からの知り合いだった長谷寿美はせすみと挙式し、4月12日には横浜港から第2の任地パリに向かった。1919年(大正8)1月に行なわれたパリ講和会議には、西園寺公望さいおんじきんもち牧野伸顕まきののぶあき両全権の随員として参加した。60余名の随員のなかには吉田茂や外務省同期の重光葵しげみつまもるもいた。
1920年(大正9)7月には2等書記官となり、11月にスイスのジュネーブで開かれた国際連盟第1回総会など国際会議に随員として参加。1923年(大正12)2月、本省情報部第2課勤務を命じられて帰国し、6月に第2課長となった。

●政治家への転身を決意

その後、1925年(大正14)9月に1等書記官としてトルコ大使館に赴任するまでの間に、芦田は省内で月刊広報誌『海外事情』を発刊し、みずからもロシア革命を題材にした『怪傑かいけつレーニン』を、白雲楼学人はくうんろうがくじんのペンネームで出版した。1930年(昭和5)7月にはベルギー大使館勤務となりブリュッセルに着任する。しかし、1932年(昭和7)2月4日、政治家になるために東京に帰着、そのまま退官した。親友の出版人・石山賢吉いしやまけんきちは、芦田が「外交官の手では、到底とうてい、難破船を救うことができない」と言って、外交官をやめようと決心したら、矢もたてもたまらずその年の春に電報で辞職を本国の外務省に届け出て、シベリア鉄道に乗って、急ぎ帰国の途に着いた、とその顚末てんまつを語っている。芦田の一面を語るエピソードである。

●憲法草案に修正を加える

芦田は、帰国した直後の1932年2月20日に行なわれた総選挙に立憲政友会から出馬、衆議院議員となった。同年9月、東京報知新聞の客員論説委員を委嘱いしょくされ、翌年1月には、ジャパン・タイムズ社の社長にも就任した。芦田は、メディアを通じて、軍部にひきずられた武断主義外交および外務省不在の日本外交批判を展開したのである。1942年(昭和17)4月の翼賛よくさん選挙には非推薦ひすいせんで当選している。
戦後は、1945年(昭和20)10月、親欧米リベラル派として幣原喜重郎内閣の厚生大臣に就任。11月には、鳩山一郎はとやまいちろうらと日本自由党創立に参加した。1946年(昭和21)5月に発足ほっそくした第1次吉田内閣で検討された憲法改正草案に対して、芦田を委員長とする帝国憲法改正案委員小委員会で、草案9条の文言に修正が加えられた。そのなかでも、第2項「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」の冒頭に、芦田が新たに挿入した「前項の目的を達するため」という一文が、今日においても9条の解釈をめぐる重要な争点のひとつとなっている。のちに芦田は、これは「侵略戦争放棄という目的を達するための制限である」と言っている。自衛のための武力は認めていたのだ。

疑獄ぎごく事件で内閣総辞職

芦田は、吉田政権の「官僚内閣」を民主主義的政権とは異質なものとして、自由党を脱党し、民主党結成へと向かう。この行動が、1947年(昭和22)5月に誕生する社会・民主・国民協同3党からなる連立政権樹立への道を切り開くこととなった。芦田は片山内閣の副総理兼外務大臣として入閣する。
翌1948年(昭和23)3月、炭鉱国家管理法案がもとで総辞職した片山内閣の後継として、第47代内閣総理大臣に指名され、外相を兼務して、民主・社会・国民協同3党連立の中道内閣を組織した。マッカーサーも芦田政権に期待した。しかし、国内はインフレが加速し、官公労の労働争議が激化していた。マッカーサーは芦田にスト禁止の書簡を送り、これにより公務員のストライキを禁止する政令201号が公布された。
おりから、副総理の西尾末広にしおすえひろの土建業者からの政治献金授受が発覚、7月に西尾は辞任する。さらに、復興金融金庫の融資にからむ昭和電工の贈収賄事件が政界・官界に飛び火し、10月7日、道義的責任を理由に芦田内閣は総辞職した。12月7日に芦田も逮捕されたが、翌年の総選挙に獄中から立候補して当選。以後、改進党・日本民主党・自由民主党の結成に参加するなど、政界の重鎮として活躍し続けた。芦田の無罪が確定したのは、1958年(昭和33)2月11日である。翌1959年(昭和34)6月20日、芦田は栄光と苦汁に満ちた71年の生涯を閉じた。

将棋に熱中する芦田均1
1948年(昭和23)10月、国会内の控え室で将棋に熱中する芦田均。写真/毎日新聞社

昭和電工事件で検察に出頭1
昭和電工事件で検察庁に出頭する芦田均
1948年(昭和23)12月7日、芦田は昭和電工事件の収賄容疑で東京地方検察庁へ出頭。逮捕されて小菅こすげ拘置所に収容され、12月29日に保釈されるまで取り調べが続けられた。写真/毎日新聞社

岸信介と会談する芦田均
岸信介きしのぶすけ(奥左)と会談する芦田均
1951年(昭和26)9月のサンフランシスコ講和条約締結後、吉田茂総理は、公職追放が解けた鳩山一郎らとの対立を深めた。1952年(昭和27)になると政界再編の動きが活発化し、岸信介らの日本再建連盟、芦田均の斡旋あっせんで重光葵を総裁とする改進党などが次々に結成された。写真/毎日新聞社

(「池上彰と学ぶ日本の総理30」より)

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