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【新連載シリーズ開始!】生きるための読書#1

社会のなかの大きな指針が失われ、個々人の「生きる力」が問われている現代にあって、私たちはなにを読めばいいのか?文学と向き合い、とことん、しぶとく悩むための読書案内!

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P+D MAGAZINEががお届けするリレー式の新連載企画、「生きるための読書」

その第一弾となるこの記事では、P+D文学講座で講師役を務めさせていただいている私「加勢 けん」が、連載企画の説明を兼ねて「いま文学作品を読むべき理由」について語ります。

元・文学研究者だった私が、「骨董品ではない文学の価値」をエモーショナルに語るこの企画、最後までおつき合いください。

 

なぜ、いま、〈文学〉なのか

「生きるための読書」と題したこのリレー式連載シリーズの趣旨を説明する前に、以下に文芸批評家であり思想家でもあるフレドリック・ジェイムソンの代表的著作、『政治的無意識』(大橋洋一・他訳)から一文を引用します。少し長くなりますので、引用部分については読み飛ばしていただいても構いません。

このように最高度に人間化された環境、もっとも完全かつ明白な意味で、人間の労働、生産、変容活動の産物にほかならぬこのような環境において、人生が無意味なものにみえはじめるという事態、いいかえれば、人間が自然という、非人間的あるいは反人間的な要素を排除し、人間の生命を脅かすいっさいのものに対して次第に巻き返しを図り、外部の宇宙に対しほとんど無際限の支配力を握る見通しが立つにつれて、実存主義的絶望と呼べるものがはじめて登場してくるという、一種変則的な事態について、私たちは一度じっくりと思いめぐらしてみる必要があるだろう。

ジェイムソンがここで言っていることは、とても難しいことのように思えて、実は非常にシンプルなことです。科学技術の発展により、人間は難病を克服し、自然の猛威に立ち向かう術を身につけることによって、自身の生存を確証できるような環境を築き上げてきました……ということはつまり、人間にとって、地球上のほぼすべての環境が、自身が生きていくために仕立て直された(「人間化」された)状況であるはず。それなのに、人間は自分自身の生み出した環境とうまく折り合いがつけられないまま、かえって〈生きる意味〉を見失いつつある……。かなり珍妙な事態であるように思えて、20世紀という時代は、このような矛盾に人類がぶちあたった時代だったのです。

では、私たちが生きている21世紀はどうか。ジェイムソンが「実存主義的絶望」と呼ぶこの状況は、インターネットの登場によりコミュニケーション技術が発展したことで、なおさらややこしいものになったと言えるかもしれません。私たちは、いつでも、どこでも、インターネットを通じて求めている“答え”と出会うことができる、スピーディーな情報消費社会に生きています。それでは、インターネットによって過度に情報化された社会の中で、私たちの〈生きる意味〉は果たして満たされることになったでしょうか?……ジェイムソンに倣って言うならば、これもまた「じっくりと思いめぐらしてみる必要がある」問いであることでしょう。

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「生きるための読書」と題したこのシリーズでは、この悩ましい問いかけに対して、〈文学〉という処方箋を用いてアプローチします。しかしそれは、「インターネットのなかった時代の文学には“生きる力”がみなぎっている」とか、「文学は人生の問いかけに対して、“答え”を提示してくれるものだ」というような、安直で懐古主義的な解決を提示しよう、という訳ではありません。

それでは、なぜ、いま、〈文学〉なのか?……答えをはぐらかすようではありますが、この前段を踏まえた「生きるための読書」の目的と意義について、以下で語りたいと思います。

 

「生きるための読書」とは?

昔むかし、「人生論的な真実の探究こそが〈文学〉の道である」と真剣に考えられていた時代がありました。どういうことかと言えば、文学が理想とするのは〈生きる意味〉の追求であったり、個々人にとっての〈生きる価値〉を最大化することだ、という考え方です。

これは今ではもう、だいぶ廃れてしまった考え方ですが、それも仕方のないことなのかもしれませんね。たとえ私たちが生きる意味について思い悩んでいたとしても、誰かの口によって語られる人生論、社会のなかの大きな指針としてもたらされる“人生の答え”は、大抵において押し付けがましく、ときに抑圧的なものでもあるからです(しかもこの「誰か」は決まって一部のおエラい人たちときたもんだから、たまったもんじゃない)。

しかし、そんな横柄な人生論はノー・サンキューだからといって、果たして「生きる意味なんてない」と平気で割り切れるかと聞かれたら、これはまた別の話ではないでしょうか。

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ここで、文学の力、その意義について再び考えてみることにしましょう。日本近代文学の巨人、夏目漱石の作品テーマについて、しばしば「近代的自我の抱える苦悩」ということが語られます。これはつまり、日本における「近代」という歴史的状況との折り合いがつかないことついての悩み(再びジェイムソンの言葉を用いるのであれば、「実存主義的絶望」のこと)を指していると言えるでしょう。

Were we born, we must die.―Whence we come, whither we tend? Answer!

(生を授かったならば、死ぬのが定め。どこから来て、どこへ向かうのか。答えよ!)

これは漱石がイギリス留学中に書いた英詩からの一節です。あの漱石ですら、そのキャリアを通じて答えのない悩みに直面し続けていたのですから、スピーディーな情報消費社会を生きる私たちが〈文学〉という“遅効性のコンテンツ”に何を求めればいいのかといえば、この時代特有の生き辛さに対するわかりやすい“答え”ではなく、むしろその“悩む力”にこそあるのかもしれません。ならば、社会のなかの大きな指針が失われ、個々人の「生きる力」が問われている現代であるからこそ、とことん、しぶとく悩むための読書案内が必要だ……P+D MAGAZINEはそう考えています。

そこで最後に、初回の読書案内に代えて、詩人・金子光晴の戦後の著作『絶望の精神史』から、「生きるための読書」というテーマの導入にふさわしい一節を引用します。

僕が絶望をかかげて、語りはじめるのは、幸せばかり考えて生きていられない時代のためである。いや、おそらく現実には、幸せばかり考えていられる、そんな時代はないのだろう。だが、知らないうちにもっと大きな落とし穴に落ちこまないようにしなくてはならない。いまこそ、絶望のありかを、すみずみまでしらべて、知っておく必要がある時なのだ。

明治から昭和にかけての戦争と混乱の相次ぐ時代に、「絶望」から「絶望」へと歩みを進めていった日本人たちに贈られる、やるせない哀悼の書物であるこの一冊からは、過去の時代の生き辛さと向き合い、そして敗れた人たちの想いがいくつも浮かび上がってきます。そのようにして過去の埋もれた「悩み」を拾い上げ、読み継いでいくこともまた、現代に生きる私たち読者の務めであるでしょう。

シリーズ「生きるための読書」とは、“読んで悩み、悩んで生きる”ための、読書バトンです。

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【次回予告】

「生きるための読書」第二回には、BL短歌にまつわるインタビューにも登場いただいた、文学研究者の岩川ありささんにおすすめの小説を紹介していただきます。お楽しみに!

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