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現代のファーブル・奥本大三郎が新刊『蝶の唆え』を書く契機になった瞬間とは……?

『完訳 ファーブル昆虫記』で第65回菊池寛賞を受賞した、フランス文学者でNPO日本アンリ・ファーブル会理事長の奥本大三郎。現代のファーブルとも称される著者の新刊『蝶の唆え』は、幼少期の記憶を書き留めた自伝的エッセイ。幼少期のことを想い出し、文章にするきっかけとなった瞬間「源泉の時」とはいったいどのようなものだったのでしょうか。

 

自著を語る1
奥本大三郎
『蝶のおしえ』

月刊 本の窓 2020年6月号

 

失われた蝶を求めて

 何かの匂いをかいだ時に、ふと若い頃のある瞬間をおもい出した、とか、街の角を曲がった時に、何か妙に懐かしい気分になったけれど、その正体が何だったか、はっきりしなくて……とか、プルーストの「マドレーヌの紅茶体験」のようなことは誰にでもある。
 ただ、それを書き表す文章の力があるかどうかの問題である。私には、そんな瞬間が訪れることが多いようだが、それは、幼少時を病床で過ごすことが多く、退屈する時間が多かったからなのかもしれない。
 やがて学校に通うようになって、日々身辺で体験することに気が紛れるようになってくると、時間のつのが早くて、じっと自分ひとりでものを考える、というより感じる機会が減ったような気がする。
 この本の元になったのは、本誌に連載した、主に幼少期の記憶をまとめた自伝的なエッセイである。次から次へと想い出すことどもを書き留めているうちに、それらを文章にすることの契機になった瞬間、源泉の時ともいうべきものは、ずっと心の中に潜んでいたことに思い当たった。
 そして、そのひとつはやはり、連載の冒頭に書いたが、昭和三十年代の乗鞍のりくら高原での、輝くようなクジャクチョウとの出会いである──そんなふうに思うと、どうしても、その体験の場所を確かめたくなった。
 思い立った時は、もう秋も近い頃であった。
 乗鞍高原は標高が高いだけに、夏の生命力は枯れかけているだろう、とは思ったけれど、行ってみることにしよう。担当の宮川氏に無理を言って同行してもらうことにした。彼も虫は好きなのでちょうどいい。
 乗鞍の環境は変わっていた。学生のわれわれを宿泊させてくれた民宿の農家が、どれだったかわからない。今はもう「学生村」などは流行はやらないのだ。冬のスキー宿も、少子高齢化のせいで、お客が少ないらしい。
 牛の糞をほじくり返してツノコガネ、マグソコガネなどを採集した牧場がなくなっているではないか。オーストラリアかアメリカか、輸入牛肉が外国から入ってくるようになって、牛を育てることも採算が合わないのであろう。糞虫は、食い物がなくなって絶滅するか、と心配することはない。増え過ぎたイノシシや鹿の糞でも食って生き延びるであろう。
「ここだったかなあ、牧場は」
 それと思しき広い場所は、バーベキューの施設になり、そこももう、シーズンは過ぎたとかで、職員がひとり、留守番のようにいるだけだった。
 そこの駐車場の端に雑草が伸び広がり、その花に、昔たくさんいたコヒョウモンモドキのかわりに、平地に多いミドリヒョウモンばかりか、かつて暖地のちょうであったツマグロヒョウモンが来て吸蜜しているのには驚いた。
「これじゃクジャクチョウはいそうもありませんね、にゅう笠山かさやまに行ってみましょうか」
 と、宮川氏に私は言った。入笠山の蝶情報を、幸い私は、東京・文京区の筆者が館長をしている「ファーブル昆虫館」のスタッフから、聞き込んでいたのである。
 花壇のようにしつらえ、「採集禁止」で厳重に守られて、手の届くところに咲いている、マツムシソウやアザミの花に、昔通りクジャクチョウがいた。私はスマホで手軽に、楽に、写真を撮った。やっぱりれいだった。
 こんなものでも、結構よく写るのが腹立たしいけれど、使うしかない。もう、重い一眼レフを持ち歩く気力、体力はなくなった。
 あれほどたくさんいたコヒョウモンモドキは一頭も見られなかった。大学二年の私は、感激して、その小型のヒョウモンの仲間を何頭も採集し、はねの模様を鱗粉転写りんぷんてんしゃという方法でパラフィン紙に写し取って、その時所持していた『ランボオ詩集』の扉に貼り付けたものであったが。

 


『蝶の唆え』
奥本大三郎/著
定価:本体1,800円+税
小学館・刊 四六判 240ページ
大好評発売中
ISBN 978-4-09-388751-9

プロフィール

奥本大三郎(おくもと・だいさぶろう)

一九四四年大阪府生まれ。フランス文学者、作家、NPO日本アンリ・ファーブル会理事長、埼玉大学名誉教授。主な著書に『虫の宇宙誌』(読売文学賞)、『楽しき熱帯』(サントリー学芸賞)、『虫の文学誌』など。『完訳 ファーブル昆虫記』で第65回菊池寛賞受賞。一連の活動に対して第53回JXTG児童文化賞受賞。

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