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【連載第10回】公儀厠番 -うんこ侍後始末- 房州、鑓の品地武之進久尚 嘉門院彷楠・作

押して五尺、ひいて五尺の手鑓。この短めの鑓を携えた若者が房州井桁藩にいる。名を品地武之進久尚といい、歳は当年とって二十歳にもなろうか。柄は黒樫で拭き漆の丸棒。これに鎌倉の名刀工・中堂来の鍛えた五寸ばかりの鑓の穂を装着している。小柄なこの若武者にとっては手頃であるかもしれない。この地味な拵えに、藩内の使い手が誰も叶わないという。武之進愛用の穂先の断面は、強いて言えば直角三角形となっている。柔らかく弾力がある皮膚を貫くために、この直角三角形の断面が一番、抵抗がないのだという。若武者・武之進がいかに強いか、そしてその腕を買われて、数えで二十歳を過ぎると、藩主・藤倉嘉門之守重友の近習となっていた。

第二章 品地武之進久尚、その手鑓の強さとは!?

 話は少し戻る。といっても数年のことなのだが……。
 房州井桁藩に手鑓を使う若者がいて、これが滅法、強い。名を品地武之進久尚しなぢたけのしんひさなおという。歳は当年とって二十歳にもなろうか。
 押して五尺、ひいて五尺の手鑓。この短めの鑓を手鑓と称する。柄は黒樫で拭き漆の丸棒。これに鎌倉の名刀工・中堂来の鍛えた五寸ばかりの鑓の穂を装着している。小柄なこの若武者にとっては手頃であるかもしれない。
 この地味な拵えに、藩内の使い手が誰も叶わないという。
 鑓の穂先というか刀でいえば刀身にあたる部分の断面は円形、正三角形や正方形の四面とは限らない。
 武之進、愛用の穂先の断面は、強いて言えば直角三角形となっている。
 柔らかく弾力がある皮膚を貫くために、この直角三角形の断面が一番、抵抗がないのだという。
 少し想像しにくいかもしれないが、相手を貫くとき、短い二辺に沿って皮膚は切り裂かれ、表皮は長辺に沿って、肉を貫く切っ先とともに体内の内側に折れ曲がる、という塩梅となる。
 このように、なまじ力任せに丸い形状の錐のようなもので突き刺したり、断面が正三角形や四角いもので切り裂くよりも抵抗感もなく、すっと吸い込まれるように皮膚を割き、肉をえぐる。
 先人の知恵とはいえ、殺傷力を向上させるこの形状には、合理的というか計算ずくの残酷さではある。
 そして、引き抜くにしたがい、この肉体の内側に巻き込まれたような正三角形の皮膚片は鑓の穂先とともに元に戻ろうとして傷口をふさごうとする。
 なんと内蔵に致命傷を与えながら、相手の肉体には鋭利な刃物でくの字型にうっすらと切ったような跡しか残さないのだ。
 絶命した遺体を見ても、うっかりすると、この命を取った凶器の存在に気がつかないことすらある。
 もっとも、それは実戦の中で後に気がついた効用で、最初はともかく柔らかいものでも瞬時に貫通する、摩擦の少ない形状を模索した結果であった。
 平時においては死因の判断を遅らせ、密殺の手段としても効果あり、と結論づけられたのだが、効果的だからといって、それを無闇に使用するというものではないことは論を待たない。また、滅多には使用する機会がないものだ。
 しかし、実戦において鑓は有効であった。

 この時代、剣術は真っ向上段から一気に降り下ろすだけである。相手の太刀先を払って小手を取るのはのちの竹刀の剣道であって、実戦では、そうはいかない。
 一般には知られていないかもしれないが、日本刀というのは下手が使うと刀身が簡単に折れてしまう。あるいは曲がるのだ。
 日本刀は柔らかく、また堅牢といわれる。それゆえに、その切断する能力は他の刃物のおよぶところではないといわれている。
 だがしかし、本当のところ、横からの力には弱い。
 水試し、というと言葉がある。池の水なり汲みおいた水面に刀身の腹を力任せにぶつけて折れないかどうかを試すのだ。
 そんな馬鹿な、と思われるかもしれないが、簡単に折れる。
 この場合、刀身で水面をまっすぐ切りつけるわけではない。刀身の横腹を水面に叩きつけるのだ。これを何度やって折れなかったなどということが品質保証になる。
 あの刀工の鍛えた刀は水試しで折れないから名工であるということになる。
 そして、その事実を踏まえて、藩は数十振りの太刀をまとめて、その刀工に注文する、ということになる。
 とはいうものの、出来た製品の全ての強度を試すわけではないのは、現在の工業製品と同じことである。
 そんなことをすれば歩留りは悪くなり、折れただの曲がっただのという事例が増えるだけである。
 したがって、ほとんどの太刀というものは、購入者が手にしたときは強度が分からない。分からないが簡単に折れることは武士ならば誰でも知っている。
 まして刀は一刀一刀、鍛えるものである。同じ刀工が同じ材で鍛えたといえども、まったく同じ強度が出ているとは思えない。いや、タタラ製法でこしらえた粗鋼は品質がひとかたまりでも場所によって特性が様々だ。均一にするだけの技術はまだない。しかし、上等であることにはかわりないのだが。
 また、日本刀は鍛造の際に鋼を何度も何度も折り返して年輪のように薄い鋼が重なったものである。それゆえに実戦において切り結んでいるうちに、その衝撃で鋼と鋼が剥がれてしまい、ササラのようになってしまうことすらあった。
 俗に武士を二本差しなどというが、 そもそも、もしものときに折れたり曲がったりしてしまっては困るというので、もう一本腰に差しているのだ。
 すなわち、予備である。ここから二本差しということがはじまった。
 あれは大刀小刀で別々の用途があって長さを変えているのではないだろう。本来ならばほぼ同じ長さのものを二本、用意しておいたほうが理に適っている。
 しかし、場合によっては刀身だけで二尺五寸はあろうかというものを二本も携帯していては重くてしようがないだろうし、見た目の粋を大切にする平時の江戸である。これは一種の流行に近いものであったかもしれない。
 そして、日常の細々した局面において、人が驚くような太刀を携帯するのもいかがなものであったろう。
 小回りがきく脇差しのほうが重宝だったのかもしれない。城内はもとより、それなりのお屋敷の中で大刀を履くことは禁忌でもあった。日頃の生活の中では刃渡り一尺二寸前後の小太刀、一尺五寸前後の脇差しを帯びることが多かったであろう。
 実際の戦場の話にもどろう。
 そんなことだから、なまじ切っ先を払って小手を取ろうなどと気取ったことを考えても、自分の太刀が折れるやもしれない、相手の太刀が折れればしめたもの、しかし、それを先刻、ご存じだから、おいそれと太刀を正眼に構えたりしない。
 ではどうするかというと、真っ向上段に振りかぶって力任せに真っ直ぐ切り下ろす。相手の太刀があろうと兜、鉢割りの類があろうとかまわず切り下ろす。ともかく、刀身にそって真っ直ぐに切れば金銅の火鉢も真っ二つ、というのが日本刀である。
 名人上手や練達の士ならば袈裟懸けに一刀両断、斜めに切り裂いても見事に討ち取るかもしれないが、なにせ平時が続く江戸の世である。実戦の経験がある者などいるはずもない。まして実戦で強度が知れた太刀もない。
 そこで、真っ向上段、となる。恐いのである。
 ところが、その振りかぶった喉元に若者の六尺余りの手鑓が飛ぶ。
 稽古道場のことである。鑓に見立てた稽古用の樫の丸棒の穂先に真綿を犬革で包んだ白いタンポをつけている。これが面白いように決まる。
 また、六尺の手鑓は樫の棒である。かまわず横に払ってくる。折れることなど気にしていないのだ。先端の二尺ばかりを切断されたとしても、まだ四尺の余裕がある。相手の立ち寄りも長く有利である。
 これを使って、ひょいと太刀先を避けたところ、懐に飛び込まれて相手はどうにもならない。
 どうも勝手が違ってこの若者の相手は面白くない。通常であれば藩内の同胞から恨まれそうなものである。
 しかし、この若武者は同輩から「武さん、武さん」と呼ばれて、誰からも好かれていた。人柄である。名を元服して久尚としたが、みな藩内では子供のころからの顔なじみであるから幼名そのままに“武さん、武さん”と呼ぶ。愛称のようなものだ。
 本来、二尺半ばかりの太刀に対して長いものは卑怯といわれそうなものである。
 だが、俗に一番鑓というぐらいなもので武勇の誉れ、先陣を切るのは鑓襖である。卑怯卑劣とはいわせない。
 そもそも、卑怯の卑劣のという考えは後の世のことで、戦場では勝てばよし、負ければすべてがおじゃんになるとして、何をしようが、ともかく勝つことが主であり、卑怯も減った暮れもないのであった。
 それはともかくとして、武家の第一は鑓術を習得することといわれるだけに、上級武士の家に連なるものにしか伝承しなかったともいわれる。
 しかし、あくまでも実戦での有利を説く。まだ実戦では勝てばいいという考えが残っていたころだ。卑怯といえは長い間合いから足を払ってくる薙刀のほうがよほど卑怯だが、あれを卑怯というひとはいない。ただ、薙刀には叶わないのである。
 そもそも卑怯という考えかた自体が存在しない。命のやりとり、勝った負けたに手段をどうこういうひとはいなかった。
 また、武之進久尚がいかに強かろうが、実際に使う機会がないことを誰もが知っていた。
 平和が長くつづいた時代である。武士の評価は、お役目をそつなく勤めあげる力量だった。
 そしてなによりも家柄で決まった。というよりは、家柄ですべてが決まってしまうので、いきおい読み書きそろばんに力を入れる御仁も少なかったともいう。
 それが昨今はどういう加減か、にわかに勉学に励むものが増え、また武術のほうでも江戸の三大道場と呼ばれるごとく、北辰一刀流の千葉周作の玄武館、神道無念流の斉藤弥九郎の練兵館、鏡新明知流の桃井春蔵の士学館が派を競う自体となっている。これに築地小田原町から神田小川町に移転した幕府開設の講武所などなど。
 やはり、このところ、かつては水平線の向こうに、たまさか見えていた外国船が、このところいまにも上陸できそうな場所を求めて頻繁に沿岸近くを通りすぎるようになったからだろうか。
 阿片密貿易をめぐる清国と英国の確執が伝わってきたり、北国ではロシア国が通商を求めてたびたび問題を起こしている。
 どうも物情騒然といった気配が長い太平の世にあぐらをかいて、のほほんとしていた武家社会にも少なからぬ影響をあたえているようだ。
 そんなことだから、上から下まで、このところ武道はもとより読み書きそろばんにいたるまで学習熱が、にわかに沸き上がっている。
 一朝ことあれば、という何やら胸騒ぎのようなものが上は幕臣から下は町場の丁稚、はては場末の職人衆の間にまで漂っている。 
 そんなこととは、とんと無縁ではあるのだが、武之進はその腕を買われて数えで二十歳を過ぎると藩主、藤倉嘉門之守重友の近習となっていた。
 どこの名家、大名家にも代々のしきたりがあり、これを守ることがすなわち家門を守り家名を汚さないことであった。
 当然のことながら、小藩とはいえ、この井桁藩にも、開祖の時代からの色々な申し送りがあり、それが家訓となっていた。
 そうした決まり事を絶やさず守り続けていくのが、何よりも大切なことだと思われていたのだ。

<続く>

※次回は8月15日に配信予定。

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