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芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 最終回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 一介の油売りから美濃国主にまでのぼり詰めた道三に、最後に弓を引いたのは、最愛の息子・義龍だった。美濃の名門・土岐氏の落胤を名乗り、大軍を率いる義龍に、少数精鋭で渡り合う道三。骨肉相食む戦いは、道三の死によって幕を閉じた。そして今、一国を託された義龍の前に、一人の男が現れる……。

   *

 さて、奈良屋である。義龍とて奈良屋当主が道三の長子であることは承知している。それゆえ父が奈良屋に美濃における専売を按排したことも悟っている。
「まさか義龍様御面前にこう致すことがあろうとは、思いもしておりませんでした」
「──それにつけても奈良屋よ、ずいぶん質素であるな」
「身なりでございますか。素裸で歩きまわらねば、それで充分かと存じますが。たしかに着古しではございます。が、充分に清まっておりまするがゆえ」
「ただ単に粗末、いや質素な恰好をしているわけではあるまい」
「このような身なりでおれば、誰も奈良屋の身代を背負う者とは思いませぬがゆえ、ぞんざいな扱いを受けることが多々ございます。はっきり申しまして、心貧しき者ほど、相手の身なりで判断致しますな」
 道三から聞いたうつけの時代の信長のことを義龍が連想していると、柔らかな笑みをうかべて奈良屋はいったん息を継いだ。
「口幅ったい物言いになりますが、一方で、恰好ではなく、この奈良屋の真を見抜いて接してくださる方もございます。奈良屋は身なりで区別差別せぬ者との商いを常に心懸けております」
 義龍は兄にあたる奈良屋に、道三の強い面影を見てとって、ふるえた息をつく。
「奈良屋」
「はい」
「この義龍も、奈良屋の身なりを──」
「即座にお悟りになられたのです」
「許されるか」
「許すもなにも、気付きもせぬ阿房が群れなすこの世でございます。阿房共はせいぜい着飾って、見栄を張り、沈んでいきます。じつがございませぬがゆえに、身なりで欺くしかないのです。せいぜい唐様のでんの牛車にでも乗っていればよろしい。生臭い物言いを許してくださいますか」
「言え。言ってくれ」
「この奈良屋、美濃国主であられる義龍様ほどの財力はございませぬが、それでも奈良屋に仕えてくれる者共すべてを飢えさせず、人並みの暮らしをさせてやれるだけの財力を持っております」
「うむ。じつは経国済民に思いを致しておったらな」
「はい」
「奈良屋。おまえに行き当たった」
「なるほど。経国済民と仰有おっしゃられると奈良屋には大きすぎますが、経済でございますれば奈良屋という小国ではありますが、それなりの実際を取り仕切り、巧みにまわすことができるという自負がございます」
「俺はな」
「はい」
「そっちがな、銭金が絡むそっちが、とんと疎い」
「率直な御方は、強い」
「こそばゆいことをかすな」
「実感でございます」
「褒めても、なにもでぬぞ」
「美濃における奈良屋の専売を永劫継続してお許しいただけるとのこと、そのことだけでも充分な果報にございます」
 なに、と目を剝く義龍であった。
 なにしろ専売継続などひと言も口にしていないのである。しかも、なんと、永劫継続である。これは専売永劫継続と一筆したためてやらねばなるまい──とその気にさせられて、義龍は我に返った。
 奈良屋は泰然自若と笑んでいる。なるほど商人というもの、武人の呼吸のさらに上をいく絶妙な間合いとしたたかさがある。ふんわり斬りこまれ、完全に奈良屋の調子に惹きこまれている。
「美濃の繁栄は、奈良屋の繁盛でございますがゆえ、浅知恵ではございますが、とことんお力になりとう存じます」
 それから薄暗くなるまで義龍と奈良屋は額を突きあわせて遣り合った。奈良屋は直情の義龍とまともにぶつかりあうことをせず、粘りのある柔軟でじわじわと義龍を搦め捕ってしまう。結局は奈良屋の言いなりである。これが合戦であったなら、完敗である──と義龍は感心まじりに苦笑いした。
「なにやら、どっと疲れた」
「なんの。銭勘定は慣れでございます。義龍様はあまりにも丼勘定。しかも、どうやら丼勘定が御家臣までをも染めあげてしまっておられるようでございます。これから先、僭越ながら奈良屋が美濃の台所の御面倒をいちいち見させていただいて、あれこれ苦言を呈させていただきます」
「よろしく頼む」
 と、言ってしまってから、美濃は、この義龍の経済は、奈良屋にすべて摑まれてしまうのだ──と悟った。が、奈良屋は膝の上に両手を組んで静かに笑んでいる。
 さすがは我が兄──と、義龍は奈良屋を受け容れて、それどころか幽かではあるが甘える気持ちさえ湧いてしまい、家臣の誰にも見せたことのない親愛の眼差しを奈良屋に投げるのであった。
 しばし和んでいたが、気の早い秋の虫の声に耳を傾けつつ、義龍は居住まいを正した。
「ところで」
「はい」
「つかぬことを訊く」
「なんなりと」
「奈良屋の父上はどのような御方であった」
 照れもあって一気に口にした。奈良屋は目尻の皺を深くした。
「商いの才は、それはたいしたものでございました」
「奈良屋は父と親しかったか」
「いやいや、父は私と一切は大仰ではございますが、あえて申せば、一切言葉を交わしておりませぬ」
「一切か」
「一切でございます」
 己との類似に息を吞みつつ、あえて疑義を呈する。
「そんな親があろうか」
「奈良屋先代は、ひたすら私を無視してくださいました」
 義龍は身を乗りだして、小首をかしげる。
「無視して、くださいました──だと」
「はい。無視してくださいました。言い方を変えると」
「変えると」
「はい。父は私を認めてくれておりました」
「無視すること、認めることか」
「口うるさくあれこれ教え込むこともできましたでしょう。が、父は私を信じてくださいまして、商いのことなど、一切触れることがございませんでした」
「では、奈良屋は独りで学んだのか」
「いえいえ、物心ついてからというもの、父のする事なす事、ひたすら凝視して、我が物とするために集中致してございます」
 奈良屋はふっと短く息をついた。

 

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