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芥川賞作家・花村萬月が書き下ろし! 新感覚時代小説【くちばみ 最終回】

古く蝮をくちばみという。戦国時代、「美濃の蝮」と恐れられ、非情なまでの下剋上を成し遂げた乱世の巨魁・斎藤道三の、血と策謀の生涯を描く! 一介の油売りから美濃国主にまでのぼり詰めた道三に、最後に弓を引いたのは、最愛の息子・義龍だった。美濃の名門・土岐氏の落胤を名乗り、大軍を率いる義龍に、少数精鋭で渡り合う道三。骨肉相食む戦いは、道三の死によって幕を閉じた。そして今、一国を託された義龍の前に、一人の男が現れる……。

 

「誘われて、たった一度だけ桶を担いだ先代と市中に油売りに出かけたことがございます」
「当主、自ら桶を」
「はい。先代はよく一人で天秤棒を肩に、腰を低くして油商いを致し、市中の者たちと忌憚のない遣り取りを致しておりました。もちろん商いに活かすためでございます」
「ううむ。大店おおだなの主が、自ら天秤棒か。自ら小売りにいそしむか」
「誘われたときは緊張致しました。まだ私は幼かったがゆえ、天秤棒をぎしぎしいわせて歩く父について歩くのみでしたが、そして父は私に対しては一切口をきかぬがゆえ、はじめのうちは掌に汗をたっぷりかいて付き随っておりました」
 奈良屋は感に堪えぬといったふうに首を左右に振る。
「売れるのでございます。父が流すと、その後ろに人の波ができるほど。いえ、決して大袈裟ではございませぬ。永楽銭の穴に油を通すという芸を見せて売るのでございますが、どうやら見世物目当てというよりも、油を売る──父と言葉を交わすのが愉しくて仕方がないといった客の笑顔でございました」
「無口な方ではなかったのか」
「私に対しては、徹底して無口でございました。されど商人としての話術は、あるいは我が母とのお喋りは、至って滑らかでございました」
 義龍は無視され続けてきた己と奈良屋を重ねて、息を詰めている。
「陽が中天に到り、空腹を覚えだした時刻でございました。油を売り切ってしまった父が奈良屋に引きかえして、新たな油桶を担いで商いに出るのではと、やや身構えておりました。しもぎょうの碁盤の目をくまなく歩いて、正直足が棒になっておりましたので。ところが、父はなにやら企む面差しにて空の桶を揺らせながら、かみぎょうに向かうではありませぬか」
 義龍は道三が情婦のところにでも出向くのではないかと邪推した。倅を伴ったのは、妻女に対する偽装だ。なんとなく義龍の気配を察した奈良屋が、声を潜めて破顔した。
「今出川小川に大層繁盛している鳥屋がございます。軒先には咽を裂かれて血抜きされた雉や鴨などが逆さまに吊されておりまして、台の上には捌いた雉肉や塩された鶴、小さなものでは丸裸の雀など、綺麗に揃っておりました。白地に屋号を染め抜いた長暖簾が風に揺れて、まるで手招きしているかのようでございました」
「京の雉は、さぞや旨いであろうな」
「雉は、どの地でありましても雉でございます。美濃の雉は、京のものよりもよほど肥えて美味でございます」
「そうか。そうだな」
「焼き物を見繕え──と、父が」
「無口な父上が」
「はい。俺の分も含めて、雉の焼き物を選べと。大きければよいというものでもない。大概が大味である。さりとて小さき物を選んで味がいまひとつであれば、どことなくしこりが残る。せいぜい吟味せよ──。そして油通しの芸に使っておりました永楽銭を私に差しだしてくださいました」
 奈良屋の顔いっぱいに笑みが拡がる。
「私の、生まれて初めての買い物でございました」
 義龍は頷くことしかできぬ。
「鴨の河原に出まして、父と並んで座って、流れを見やりながら雉の焼き物をいただきました」
 奈良屋は追憶に目を細める。
「炭で焦げた皮や肉の香ばしさ。じわっと滲みでる脂。絶妙な塩加減。信じ難き美味でございました。私が骨にまでむしゃぶりついていると、父はほとんど食べていない雉を、私に差しだしました」
「差しだしてくれたか」
「はい。私は、父が口を付けたところから、思い切り嚙みつきまして──」
「うん」
「なにやら泣きそうな気持ちをごまかすために、ひたすら雉肉を嚙み締めました」
「うん」
「鳶がごく低いところを舞いはじめました」
「雉肉を」
「はい。狙っておるのでございます。父は天秤棒を手にし、私にむかって飛翔してきた鳶を打ち据え、打ち落としました。羽を折られて地べたで踊る鳶を見据え、言いました」
「なんと」
「これも焼くか」
「ははは」
「鳶にとどめを刺し、私の脇にゆっくり腰を落とすと、流れに漠とした眼差しを投げ、呟くように言いました」
「なんと」
「鴨で雉を食べる」
「ははは」
「あのときも、そう言った、と」
「あのときとは」
「祖父が幼い父をおいて奈良屋に婿入りすることになったばかりのころでございます。父をさる武家にあずける算段を致したのでございます。その直前に、祖父は父に雉の焼き物を」
「食わせたか」
「はい。父は祖父の気持ちが痛いほどにわかりますがゆえ、鴨で雉を食べるのですね──と、あえておどけたそうです。祖父は俯き加減で笑いだし、そして父に気付かれぬよう、泣いたといいます。私は父から突き放されるばかりでしたが、祖父は父を手塩にかけ、猫可愛がりしていたようでございます」
 

 

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